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暴かれ始めた戦後の日本政府が捏造した明治維新 |
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異質・岩倉具視ウィキペディア=臭くの道具であり内容は大嘘、工作の可能性あり!
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。
10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。
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2021・9・5 東洋経済
倒幕支えた「岩倉具視」が頭角現したある衝撃行動
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「記事内容」
「維新の三傑」といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允だが、その裏で倒幕に貢献したのが、岩倉具視である。
公家としては低い身分にありながら、強烈な上昇志向で、明治維新の立役者となった岩倉。
その原動力はどこにあったのだろうか。
今回は、岩倉が中央政界に進出するきっかけとなった事件について解説する。
第1回:公家なのに超奇抜
「岩倉具視」その面白すぎる素顔
■岩倉の存在を知らしめた「廷臣八十八卿列参事件」
公家らしからぬ自由奔放さで、異彩を放っていた岩倉具視。
閉鎖的な公家社会だけに、平時であれば
「知る人ぞ知る変人」として、生涯を終えてもおかしくはなかった。
だが、異端児は乱世に強い。
列強から開国を迫られて国内が揺れ動いた幕末においては、常識よりも現状を打破する突破力が求められた。
安政5(1858)年3月12日、関白の九条尚忠は、度肝を抜かれたことだろう。
突然、88人もの公家が自邸へと押しかけてきて、しまいには、座り込み活動を開始したのである。
公家が集結して関白に抗議運動を行うなど、本来、考えられないことである。
現状維持を好む公家たちを、そんな非常識な行動に駆り立てたのは、ほかならぬ岩倉具視だった。
岩倉はこの
「廷臣八十八卿列参事件」で、中央政界に自分の存在を知らしめることになる。
なぜこんな抗議運動が起きたのか。
それは
「異国嫌い」の孝明天皇が、日米修好通商条約の調印にあくまでも反対したことに端を発する。
安政5年2月23日、関白の九条邸に岩倉たちが押しかけてくる20日ほど前のことだ。
江戸幕府で老中首座を務める堀田正睦は、日米修好通商条約の締結について、天皇から許可をもらうべく、上京する。
しかし、孝明天皇から思わぬ言葉を伝えられることになる。
「条約調印は国家の重大事であるから、三家以下の諸大名が議論したうえで、もう一度奏上するように」
条約調印について、孝明天皇から
「慎重に議論しろ」と差し戻されてしまったのである。
実のところ、孝明天皇は1月末の段階で、条約締結に反対することを決めていた。
外国と親交を持つのはやむをえないとしても、自分の代で通商まで認めてしまうのは
「後代までの恥となる」(『孝明天皇紀』)と考えていたからだ。
また、条約締結に反対を打ち出すことで、開国派で長期にわたり関白を務めた鷹司政通の影響力をそぎたいという思いもあったようだ(『徳川慶喜の支持者「孝明天皇」開国嫌った真の理由』参照)。
孝明天皇の開国拒否によって、鷹司政通は老齢と病気を理由に辞職。
後任関白の九条尚忠が補佐することとなる。
■もはや後戻りはできない幕府
■堀田にとって計算違いだった岩倉具視の存在
■会うことを拒絶されても、しつこく粘った岩倉
前略
普通ならば、ここで引き揚げるところだろう。すでに書面は左大臣に渡している。
直接、訪問までして、十分なプレッシャーをかけることもできた。
目的は達成されたといってよい。
だが、岩倉は実にしつこい男でもある。
仮病を使って、引きこもるその性根も許せなかったのかもしれない。
とことんやるべしと、何度も九条家の家人と交渉しながら、こう伝えて家の前から離れなかった。
「回答を得るまでは、私たちは帰りません」
このときばかりは、九条も相手が悪かった。
長期戦に持ち込まれ、しぶしぶ
「明日しかるべく返事をする」と答えている。
これを聞いて公家たちは九条邸を退散。
岩倉の粘り腰で、実に夜10時まで居座り続けたのだった。
岩倉具視、34歳。
中央政界への鮮烈なデビューとなった。 |
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