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満州に渡った日本人(満蒙開拓団)
年代 / 2026 2025 2024 2023 2022 2021 2020
2020 / 1/1
戦後の日本政府は大嘘で日本人を騙す大罪を犯している!
2019・4・13 信越放送
【満蒙開拓の記憶】「行っていいという自分の一言で殺してしまった」15歳の教え子を満州へ 元教師の終わらない戦後 
「記事内容」
戦後75年、体験者が減っていくなか、ひとりひとりの心の奥底に刻まれた不都合な記憶を見つめ、平和の尊さを語り継ぐ。
松本市に住む宮川清治さんは、国民学校の教師をしていたとき、15歳の教え子を満州(現:中国東北部)に送り出した。
満蒙開拓青少年義勇軍と呼ばれた国策で、その数は全国でおよそ8万5千人、長野県が最も多く7千人近い。
県は学校にノルマを課して送出を進める。
その先頭に立ったのが、宮川さんたち教師だった。
  家族にも話せない記憶
2013年に長野県の阿智村に開館した満蒙開拓平和記念館は、戦争中の満蒙開拓をテーマにした全国初の施設で、開館前から体験者の証言記録に力を入れている。 松本市に住む宮川清治さんの収録に同行したのは2012年の冬。当時、93歳で、足の痛みをおして取材に応じる宮川さんを娘が支えていた。「私たちには戦争のことは何も話さないんですよ」という娘に「悪いことをしたと思っているから」とつぶやく。 満蒙開拓青少年義勇軍は、10代半ばの子どもたちを集め、毎年1万人以上を満州へ入植させる国策だった。募集は1938年から始まり、満州開拓の促進と将来の農業従事者を育成することがうたわれた。しかし、その裏には、成年男子が徴兵され満蒙開拓団の募集が滞っていたことや、対ソ連戦略における関東軍の予備軍としての軍事的目的が隠されていた。 長野県は、町や村に人数を割り当て、学校単位で募集を行ったが、大きな役割を担ったのが、信濃教育会という教員がつくる研究団体だった。学校に絶大な影響力をもっていたため、県は信濃教育会に対して、必ず割り当ての人数を確保するように強く要請する。各学校へのノルマは厳しくなり、教師が必死に生徒たちを勧誘した。
  国策を進めることが教育だった 
※戦後の日本政府も一緒だが、戦前の日本人の方が真面に育っていた!  大日本帝国政府は日本人を育てたが 戦後の日本政府は多くの嘘を捏造し、日本人を愚民にした。
高学歴者程、愚民化が酷い! 戦後の日本政府は高学歴者を洗脳し、大嘘吐きと守銭奴に育て、統治機構内に取り込み利用している。

国民学校の教師だった宮川さんは、長野県の南に位置する平岡村(現:天龍村)に赴任していた。
毎年、4人から5人の割り当てが課せられ、達成は村をあげての悲願だった。
学校で募集の担当になった宮川さんは、茨城県にあった内原訓練所を視察する。
全国から集められた子どもたちが、満州へ渡る前に、ここで3ヶ月の訓練を受けていた。
宮川さんは、指導者の話を聞き、農業や勉強、軍事訓練に励む子どもたちの生き生きとした姿を目にする。  
※当然である、日本人に育った日本人を目にしている!
  「15歳の少年を満州に出すなんて、心のなかでは反対していた。それが訓練所で義勇軍の重要性を見聞きして、変わったね、気が変わって、学校に戻ってから義勇軍の教育をやったわけ。」
その年、宮川さんは、4人の教え子を満州へ送り出し、村はノルマを達成することができた。
一番喜んだのが村長と校長だった。
今まで割り当てが達成できず、片身の狭い思いをしていたが、
  「宮川先生のおかげで今年から威張れる」と感謝を伝えられた。
先頭に立って進めた義勇軍送出だったが、本当に正しいのか気持ちは揺れていた。
15歳といえば今の中学2年生。
満州へ送り込むことは無茶な政策ではないのか、戦いが始まったときに駆り出されることはないのか、そんな不安がよぎった。
  少年たちが見た満州の夢 
※少年達だけでゃない、日本人は挙って軍人含め夢見た理想郷、満州国に近づいていたが、政府内の日本人(共産主義者)と恩知らずのシナ人である蒋介石の裏切りにより、大日本帝国民全ての夢が瓦解を始め、日本人の不幸が始まり、不幸は戦後の今も続いている。
満州へ渡った少年たちはどのような道を辿ったのか。
長野県の北部、山ノ内町に住む須田光司さんを訪ねた。
14歳のとき、満蒙開拓青少年義勇軍に参加した。
当時、家は山あいの僅かな土地を耕し生計を立てていた。
8人兄弟の三男で、将来を考えるようになったのは、国民学校を卒業する頃だった。
  「家にいても自分の田畑はないからね、みんな小作で。衣類だって、ほとんどつぎはぎだらけ。食いたくても食糧はない。土地をわけてもらって、分家というわけにはいかないからね。だからいっそのこと満州へ行ったほうが何とかなるだろうと」。
周辺の町や村から集まった総勢200人の子どもたちは、中隊長の名前をとって、頓所(とんどころ)中隊と呼ばれた。
ほとんどが国民学校を卒業したばかりの14歳から15歳の少年だった。
「不安がないと言えば嘘になるけどね、自分で行く気になっていたんだから。大東亜共栄圏なんて言ってね、とにかく日本が、日本人が全てだと。もう希望に燃えてね。」
1944年6月、満州へ。
大きな訓練所で共同生活が始まった。
生活は、自給自足。
3年の訓練を終えれば、開拓団として独立。
家と土地をもち、地主になることができる。
軍隊式の生活は、気の休まる暇もなく、大陸の農業といっても、畑に出て草狩りばかり。
どこまでやれば終わるのか、気の遠くなるような毎日だったが、地主になるという夢が支えだった。
  これが人間なのか
1945年8月9日、激しい砲撃の音に、須田さんたちは震え上がった。
戦闘機が上空を通過していく。
近くの開拓団から、戦争が始まったらしいと連絡があった。
状況がわからないまま、中隊長の指示で、荷物をまとめ、須田さんたちの逃避行が始まった。
ソ連軍が国境を超えて侵攻していた。
この日、大本営は関東軍へ命令を下している。
満州を放棄して、朝鮮半島を防衛するというものだった。
国境の部隊はいち早く南下、少年たちを守る軍隊はすでにいなかった。
関東軍の拠点だった勃利、林口、牡丹江は、すでにソ連軍が制圧、山中に身をひそめながら逃げ続ける。
訓練所を出て2週間。
深い山に入っていた。
靴の底は破れ、眠気が襲い、食べ物もない。
草や、木の芽をかじったが、苦くて、渋くて、とても飲み込めない。
小休止の度に、起き上がれない友だちが出始めていた。
  「友だちが倒れて、動けなくても、『連れてってくれ』という叫びを聞いていながら、どうすることもできない。自分だけで精一杯なんだから」
須田さんは、倒れた友だちを振り返らず、歩き出す。
2ヵ月後、北朝鮮との国境に近い延吉へ辿り着く。
収容されたのは刑務所だった建物。
冬が近づいていた。
コンクリートの上にアンペラという薄いものが一枚敷いてあるだけで、麻袋をかぶって眠った。
おやすみと言って眠った友だちが、朝起きたら動かない。
須田さんは、次は自分の番なのかと恐怖にかられ、夢中で彼の服をはいで、体に巻きつけた。
  「普通だったら死人が着ていたのをはいで着ることはしないでしょう、普通ならね。そのときは自分も薄着で、零下30度という寒さの中でね、そうやらざるを得ない。自分が生きるためにね」
別の収容所に移ると、恐ろしいことが始まった。
早い時期に渡満した義勇軍の先輩による虐待だった。
※朝鮮人か?
  「食べ物は自分たちでとって全部食べちゃう。だから下の方は段々弱ってしまう。助けようと思って口を出せば、貴様!ということだからね。自分の欲のために、人を殴ったりする。収容所のなかで殺された人もおりますよ。チェーンで殴られてね、夜、外へしばりつけられて凍死してしまった。これが人間なのか、恐ろしかったですね」。
満蒙開拓青少年義勇軍は、全国でおよそ8万5千人。
3分の1を超える3万人余りが命を落とした。
須田さんがいた頓所中隊は総勢200人、半数を超える118人が死亡した。
  終わらない戦後を生きる
元教師の宮川清治さん。
戦後、送り出した教え子の一人が、収容所で亡くなったことを知る。
重い足取りで生徒の両親を訪ねた。
  「親はね、そういう運命にあったから、先生そんなことを心配しなくてもいい。あの子は、自分でも行くと言って親たちも賛成したから、苦にしては困るって。そう言われても、私の『行っていい』という一言で、ひとり殺した。忘れようとしたって、夢見ちゃって駄目だ。」
戦場で命を落とした10代半ばの少年たちは、軍国主義の犠牲者とされた。
ひとりの教師として、本当にそれで終わりにしていいのか、何度も自分に問いかけた。
  「時代がそういう時代だったから諦めろと言ったってね、殺した側になると諦めきれない。こういう話をするのは本当に嫌だ」
宮川さんは、声を震わせ、突然、泣き崩れた。
戦後、自責の念から教職を離れていたが、恩師のすすめもあり、再び教壇に立った。
二度と過ちを繰り返さないための教育。 
※戦争は海と空を越えて勝手にやって来る日本人の災難、災難を防ぐために日本人は何をすべきか? 今の戦後政治は災難を防ぐどころか、逆に呼び込んでいるぞ、確りせい、日本人!
それが人生をかけて為すべき使命だと考えるようになった。
しかし、心に刺さったままの棘の痛みが和らぐことはない。
穏やかな表情の陰に、降ろすことのできない重荷を背負い、終わらない戦後を生きてきた苦悩が滲んでいた。
 
※私は彼等に「何をやっているのだ!」と激を飛ばしたい!
朝鮮族安倍晋三率いる日本政府の戦後政治が再び、日本人を奈落の底に突き落とそうと国家破壊を続けている。
気付かない馬鹿な高学歴者が多い日本、早く目覚めろ、日本人!

戦後の日本政府は大嘘で日本人を騙す大罪を犯している!
2019・3・31 (1/3ページ) 信越放送 
【満蒙開拓の記憶】「幼い子どもの首を絞める手伝いをしたんだ」75年前の集団自決 たったひとり生き延びたのは15歳の少年だった 
「記事内容」
戦後75年、戦争体験者が減っていくなか、ひとりひとりの心の奥底に刻まれた不都合な記憶を見つめ、平和の尊さを語り継ぐ。 
※戦後の日本政府は日本人に「平和」を学ばしているのか? 「NO」である。
大嘘の歴史を学ばせ国家統治の正当性を見出しているのだろうが、戦後の日本政府の正体は既に、バレている!

長野県の豊丘村に住む久保田諫さんは、戦争中、満州(現:中国東北部)をめざして海を渡った。
全国でおよそ27万人。
長野県からは最も多い3万人余りで、2位の山形県の2倍以上と突出している。
満蒙開拓団と呼ばれたが、その実態は、中国の植民地支配とソ連国境の防衛を目的に入植を進める国策で、敗戦後の逃避行や収容所では8万人余りが命を落とした。
久保田さんがいた開拓団は集団自決の道を辿る。
  残された母親と子どもたち
2008年と2013年に取材した、長野県豊丘村に住む久保田諫さん。
14歳のとき、家族と離れ単身で満州に渡った。
帰国したのは敗戦から3年後の1948年。 
※シナからの引き上げ者に共通する「敗戦から3年後の1948年」、三年間に日本人に何があったのか? 事実、誰も一切、証ていない!
テレビカメラの前で集団自決の全貌を語るのは初めてだった。
満州国は1932年にできた日本の傀儡国家で、開拓団の送出は国策として進められていた。
久保田さんがいた河野村も、国の政策に従って村人を送り出す。
  「お国のため」であり、村の財政改善にも結びついていた。
しかし、送出を決定した1943年には、戦争の激化で若者は招集され、働き手は軍需工場へ。
募集は思うようにいかなかった。
開拓団は家族単位が基本だったが、人数を確保したい村は、久保田さんの父親を説得し、14歳の少年を単身で参加させることにした。
河野村開拓団は総勢95人。
1944年8月、吉林省の長春の郊外で入植式を行った。
インタビューの空気が一変したのは集団自決に話が及んだ時だった。
息遣いとカメラの機械音が沈黙の重苦しさを際立たせる。
  「開拓団へ来れば召集令状は来ないというわけだったけど、正真正銘の召集令状が来て段々入隊して行った」 戦況の悪化とともに開拓団の成人男子は召集され、1945年8月15日、残っていた男性は4人。
あとは団員の妻と子どもたちだった。
日本敗戦のニュースが届くと事態は緊迫していく。
  「どこからともなく何百人という人が集まってきて、一人の兵士が馬に乗って走ってくると空へ向けて拳銃をぶっぱなして、ときの声が上がって暴動が起きたんだ」  
※朝鮮人兵士の可能性あり!
開拓団に残された76人は、中国人に囲まれていた。
  偽りの豊かさ
開拓団の農地と家は、日本の公設企業が現地の中国人から安く買い叩いて手に入れたものだった。
“開拓”とは名ばかりで、もともと住んでいた中国の農民を、開拓団が追い出した形だ。 
※軍律が厳しかった帝国軍、事実だろうか? 南京と同じ構図の感じがする!
2017年、土地と家を奪われた人に話を聞くことができた。
長春の郊外に住む蔡忠和さんは、当時14歳。 
※シナ人?or満州人? 答えは大きく異なる!
一家は、河野村開拓団の入植で、半ば強制的に退去させられ、米も野菜も作れないやせた土地に、草の家を建てて暮らすことになった。
  「住めなくなったけど、命さえあれば、それでよかった。日本人の言うことが絶対だったから。開拓団が耕し始めた土地はもう日本のものだった。食べ物もろくになかったので、どんぐりの実を粉にして食べていた。家族全員、お腹をこわしたり、痛がったりしたこともあり、食べにくかったが、お腹がいっぱいになれば、それでよかったんだよ」。
開拓団が満州で手にした豊かな暮らしは、中国人に犠牲を強いることで成り立つものだった。 
※満州国に多くのシナ人が流入していたにも拘らずだ。大嘘の気がする!
  国に見棄てられた開拓民
久保田さんたちが敗戦の知らせを受けたとき、満州で日本の軍事を担っていた関東軍は、大本営の命令を受けて既に撤退を始めていた。
国に見棄てられた無防備な開拓民に、中国人の報復の矛先が向けられる。
  「8月15日の晩は身の回りのものをもって避難したんだけど、16日の夜に暴動が起きたときは、そんなもの持って逃げようと思っても取り返されて、着のみ着のままで叩き出されてしまった」。
広大なトウモロコシ畑のほかに身を隠す場所はない。
しかし、すぐに見つかり、服も奪われてしまう。
取るものがないとわかると、これまで抑圧されてきた住民たちの怒りは、開拓団の責任者である65歳の団長へ向けられた。
  「気の毒なほど、団長は暴力を受けている。年寄りだから余計に抵抗力がなくて、もう虫の息だった。苦しくてやっとしゃべれるくらいで『俺はもう駄目だから早く楽にしてくれ』って言い出した。とにかく俺を楽にしてくれと訴える一方だった」
幹部の妻たちの話し声が聴こえてきた。
  「これで逃げていくわけにはいかない、団長さんああ言うんだから、とにかく言う通り楽にしてやりましょうよ」 異を唱える者は誰もいない。
  「できるだけの人が手をかけて、団長の首を絞めて息の根を止めて楽にしてやったんだ」。 
※武士の情け!
  お父さんは戦死したんだから・・・
団長を亡くした開拓団は追い詰められていく。
当時は、捕虜になって命乞いするよりは潔く死を選ぶことが尊い生き方と教えられていた。
暗闇におびえる若い母親たちに狂気がまといつく。
  「『お父さんは戦死したんだから、日本は駄目なんだから、お父さんのところへ行きましょう』と言って、幼い子どもに手を合わせさせると、母親が後ろから帯紐やもんぺの紐で首絞めて。反対する人はいなかったな。『それでも何とか逃げていきましょう』という声は耳にしていない。お互いに我先にと自分の子どもを殺し始めたんだ」。
日本にいる家族と離れ、ひとりで開拓団に参加した久保田さん。
何が起きているのか理解できず呆然としていた。
  「しばらく考え込んでいたら叱られたんだ。『何しているんだ、早く手伝ってくれなくちゃ、また中国人が来たり夜が明けてしまう』って叱りを受けて。仕方なしにお手伝いを始めたんだ、子どもの首を絞める」 どれくらいの時間が経ったのか、何人ぐらい手にかけたのか、感覚はない。
最後まで残った青年と、石で額を叩きあい自決を図り、意識を失う。
翌朝、瀕死のところを中国人に助けられ、生き延びた。 
※満州人だろう!
その後、難民収容所で冬を越し、鉄道工事などの仕事を転々とした。
引揚げ船の情報を得て、村に帰り着いたのは、敗戦から3年が経った1948年の夏。
それは苦しみの始まりでもあった。
  逃れられない苦しみを背負って
開拓団に残された76人のうち、団長は暴行を受けた後に死亡、73人が集団自決。
最後に久保田さんと自決を図った青年も中国人に助けられたが、現地で病に倒れて亡くなった。 
※満州人だろう!
召集されて開拓団を離れていた男性たちは、引揚げて帰村。
自決した妻子のことを心の奥に沈め、新しい家族を築き再出発した。
敗戦の翌年には、開拓団を送り出した河野村の村長も自責の念に苛まれ自ら命を絶った。
自殺した村長の責任を問う声はなく、残された妻や子どもを気の毒だと気遣う。
久保田さんを責め立てる人もいなかった。
戦後、村のなかで、この事実を口にすることは憚られた。
送り出した側も送られた側も深い悲しみと痛みを抱え、同じ村で生きていくために心に鍵をかけなければならなかった。
久保田さんは、毎年8月16日、自決した人たちの名前が刻まれた村の慰霊碑に線香を供えて手を合わせる。
  「大勢の命を奪ったという自分の後ろめたさというか、どこかで『お前は大勢の人殺しじゃないか』って指をさされるような気持ちになるときもある」 戦争という極限の状態、そこが戦場であれば、人の命を奪うことは許されるのか。
繰り返し自分に問いかけてみるが、どんな答えを出しても、この苦しみから逃れられないことはわかっている。
長野県の阿智村にある満蒙開拓平和記念館では、開館した2013年から、毎月、語り部講演を開催している。
久保田さんは、2020年現在も語り部の一人として体験を語る。
記憶を呼び起こす作業は苦しく、講演した夜はうなされることもあるという。
時に顔を歪ませながら、それでも語り続ける姿は、体験者としての使命感からだけではない。
自らに責苦を課しながら、無かったことにできないあの夜と向き合い続けているようにもみえた。
 
※毎月、語り部講演を開催している限り、日本人は今を抜け出せない、もう止めろ!
日本人が今必要なのは大和民族の誇りを取り戻す事、久保田さんに付け入り悪さを働く輩が多く、中には在日もいる!
シナ人は日本人を洗脳せずして、日本に送り返すなど、あり得ない!
私は彼等に「何をやっているのだ!」と激を飛ばしたい!
朝鮮族安倍晋三率いる日本政府の戦後政治が再び、日本人を奈落の底に突き落とそうと国家破壊を続けている。
気付かない馬鹿な高学歴者が多い日本、早く目覚めろ、日本人!