1960年代、吉永小百合、松原智恵子と「日活三人娘」といわれた売れっ子だったのが和泉雅子だ。青春路線だった当時の日活で、キュートで清純な彼女は見事にハマっていた。
47年、東京・銀座の三原橋近くですし店を営んでいた両親のもとに生まれる。チャキチャキの江戸っ子のようだが、そのルーツは、なんと戦国武将・竹中半兵衛の血を引いているとか。
愛称はマコ。10歳で劇団若草に入団。その後、吉永と同じ精華学園女子高校を卒業。そのころは喜劇役者になりたかったという。実際、つてを頼って柳家金語楼のカバン持ちをしていたところを、日活のプロデューサーだった女優の水の江滝子にスカウトされたのだから、人生、何が起きるか分からない。
すでに映画にはちょい役で出ていたが、日活でのデビューは61年の「暗黒街の静かな男」。しかしその才能が開花したのは63年の「非行少女」(浦山桐郎監督)だ。モスクワ国際映画祭で審査員だったジャン・ギャバンに「この子はすごい」と言わしめ、エランドール賞に。映画も金賞を射止めている。
このころ、和泉と高橋英樹のコンビはポスト「吉永小百合・浜田光夫」と目されていた。当時、雑誌「近代映画」の人気投票では、女性の部で66年から2年連続で吉永に次いで2位だったから人気は本物だ。
さらに、66年に山内賢とデュエットした「二人の銀座」、翌年の「東京ナイト」が大ヒット。両方ともベンチャーズが作曲した。特に「二人の銀座」は最初、越路吹雪が歌う予定だったが「これはマコのほうがいいわよ」と越路が譲った。それが100万枚を超えるヒットだからレコード会社もウハウハだった。
冒険家としての活躍も触れねばならない。89年、日本人女性で初めて海から北極点到達を成し遂げている。
きっかけはテレビ東京のリポーターとして南極に行ったこと。雄大な自然に圧倒され感激し、冒険家になってみたいと願うようになった。膨大な借金を背負いながらも、2度目のチャレンジで見事成功した。
厳しい自然と立ち向かい、チャーミングな美貌がすっかりたくましくなった。本人もインタビューで自嘲気味に「昔は美人といわれたのよ」と笑いを誘うことも。とはいえ、その根性は戦国武士・竹中半兵衛譲りなのかもしれない。(望月苑巳)