大東亜戦争/太平洋戦争(日米戦争)
大和民族の日本人は大嘘の歴史・明治維新以来、和名を名乗る朝鮮人に騙されている! |
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太平洋戦争・日米戦争
和名を名乗る朝鮮人二人(共産主義者)・長野と山本の敗戦革命! |
アメリカは何故、大東亜戦争と日米戦・太平洋戦争を区別したのか?
日米戦争は大嘘吐きの和名を名乗る朝鮮人(共産主義者)と米国政府(GHQ)の合作!
和名を名乗る朝鮮人の目的は大和民族殲滅戦争(戊辰戦争も同じ)! |
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沖縄県始め日本全国津々浦々に何故、大嘘吐きの和名を名乗る朝鮮人が多いのか?
顔相・体形・當問孝太郎は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明しものを言え!
真珠湾攻撃(日米戦争)は顔相・体形・米留学・米のスパイ?和名を名乗る朝鮮人「山本五十六」が日本に仕掛けた敗戦革命と大和民族殲滅作戦=日清戦争・日露戦争も大和民族削減戦争! |
2023・10・10 社会部・當銘悠 沖縄タイムス 顔相・當銘悠は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し記事を書け!
「静かな通学路が地獄のように」 死を覚悟した9歳、恐怖は今も脳裏に 旧那覇市の9割が焼けた「10・10空襲」きょう79年 |
「記事内容」
旧那覇市域の約9割が灰と化した1944年の
「10・10空襲」から10日で79年となる。
現在那覇軍港がある同市住吉町で暮らし、9歳だった當間孝太郎さん(88)は垣花国民学校に登校する途中だった。
「静かな通学路は地獄のような道になった」。
9年前に味わった恐怖が、ずっと脳裏に焼き付いている。
【写真】「火炎放射器で焼かれたのか…」100m圏内で次々と骨片を見つけた具志堅隆松さん
10月10日朝、いつものように自宅を出て両側に石垣がある道を200メートルほど歩いた時、
「ドカンドカン」と爆音が響いた。
同時に、体が吹き飛ばされるような爆風に襲われた。
空にはグラマン機が飛び交う。
「敵機来襲!」。
間借りしていた民家の前で、掃き掃除をしていた日本兵の叫ぶ声が聞こえた。
「本当の空襲が来た」と実感した。
一目散に走って自宅へ帰ると位牌(いはい)を抱いて右往左往する祖母の腕をつかみ、庭の防空壕に隠れた。
直径1メートル50、深さ1メートルほどの小さな壕の中で、学校で教わった通り指で耳と目を押さえ、攻撃が収まるのを待った。
縦横無尽に米軍機が飛び交う中、日本が撃った高射砲の弾はそのはるか下で爆発し、全く届かない。
日米の力の差を目の当たりにし、幼心にも
「日本が負けるはずがないと信じていたけど、これは負け戦だなと。自分はいつ死ぬのか、どんな死に方をするのか」と思ったという。
空襲が一時やんだ昼ごろ、防衛隊に召集された父や外出していた母と妹が家に戻ってきて、全員で自宅近くにある他家の古墓に向かった。
父が厨子甕(ずしがめ)5~6個を取り出して家族で中に入り、一晩を過ごした。
翌朝、父母と一緒に墓を出て高台から一変した那覇の街を見た。
かやぶきの自宅もその周辺も焼き尽くされ、あちこちで煙が上がっていた。
具志の親戚の家にたどり着くと、父は
「自分の家が全部燃やされた」と泣いた。
初めて見た父の涙が今も忘れられない。
45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。
その頃には名護市中山の山中の避難小屋で、防衛隊の父を除く家族6人で身を潜めていた。
間もなく中南部から大勢の人たちが避難してくると、炊事の煙で狙われたのか艦砲射撃が始まった。
「死ぬ時はみんな一緒」と家族で川のそばのくぼ地に伏せて死を覚悟したが、生き延びた。
捕虜になり、飢えと栄養失調、マラリアで生死の境をさまよった。
再会を待ちわびた父はとうとう帰ってこなかった。
「台湾有事」を念頭に軍備強化が進む。基地が集中する沖縄は、真っ先に標的にされるのではないかと危機感が強い。
「いろいろな国と外交し、どことも戦争をしてはいけない。平和な時代を何があっても崩してはいけないんだ」。
79年前の
「沖縄戦の始まり」の日を思い起こし、そう強く願っている。 |
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日本唯一の大和民族の日本人(農奴)を裏切った天皇家(混血)!
嘘とまやかしで成り立つ日本・身分制度/士農工商は大嘘、士商工農こそ真実!
日本は既に、和名を名乗る朝鮮人の国、「第二朝鮮」! |
2023・8・15 BuzzFeed Japan 記事主よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し記事を書け!
玉音放送、わかりやすく現代語訳してみた。「戦争を継続すれば我が民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明も破壊される」 |
「記事内容」
8月15日は
「終戦の日」。
1945年8月15日正午、昭和天皇が話す声の録音がラジオで流れ、ポツダム宣言を受諾することを国民に告げました。
太平洋戦争の終結をアナウンスした
「玉音放送」です。
【動画はこちら】玉音放送の原盤にある昭和天皇の声「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」
この玉音放送で昭和天皇が読み上げた
「終戦の詔書」は漢文調で難解な文章だったため、当日、その放送を聞いた国民の多くはその内容がほとんど理解できなかったとも言われています。
現代を生きる私たちなら、なおさらわかりません。
そこでBuzzFeed Japan編集部では、
「終戦の詔書」をなるべくわかりやすい文章で現代語訳しました。
現代語訳するにあたっては、『【永久保存版】CDブック 昭和天皇 玉音放送』の著書がある麗澤大学の川上和久教授に監修をお願いしました。 ※顔相・川上和久よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し仕事をしろ!
終戦から78年を迎えるにあたって、太平洋戦争とは何だったのか。
昭和天皇の願いを私たちはかなえることができたのか。
現代語訳を読むことで、改めて考えてみてはどうでしょう。
「終戦の詔書」の現代語訳(BuzzFeed Japan編集部)
私は世界情勢と我が国の現状を深く考えた上で、非常の手立てをもって事態を収拾したいと思うようになり、ここで私の忠義で善良な国民に告げます。
アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4カ国による共同宣言(※ポツダム宣言のこと)を受諾する旨を、私は日本政府から4カ国に通告させました。 ※中国は大嘘、正確には中華民国!
そもそも日本国民が平穏な生活を送って、世界の国々と共に栄えるようにすることは、歴代天皇が残してきた手本であり、私の念願でした。 ※大嘘、日本唯一の大和民族の日本人(農奴)を裏切った天皇家!
以前、アメリカとイギリスの2カ国に宣戦布告した理由も、我が国が自らの力で存続することと、アジアの安定を願ったからです。
他国の主権を排除して、領土を侵害するようなことは、もとより私の意志ではありません。
しかし、この戦争が始まってからすでに4年が経過しました。その間、陸海将兵は各所で勇戦奮闘し、役人たちもそれぞれの職務に励み、また1億人の国民も各職域で奉公してきました。
このように各自が最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも私たちに有利に展開したとはいえず、世界の情勢もまた私たちに不利になっています。
これに加えて、敵は新たに残虐な爆弾(※原子爆弾のこと)を使用して、多くの罪なき人々を殺傷しました。
その惨害はどこまで広がるか計り知れません。
戦争を継続すれば、我が民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明も破壊されるでしょう。
そうなれば、私はどうやって我が子に等しい国民を保護し、歴代天皇の神霊にお詫びできるでしょうか。
これこそが、私が日本政府に共同宣言を受諾するようにさせた理由です。
私は、これまでアジアの解放に向けて我が国と協力した友好国たちに遺憾の意を表明しないわけにはいきません。
また、我が国民のうち戦死や殉職するなど不幸な運命で亡くなった人々や、その遺族に思いをはせると身が引き裂かれるような思いです。
さらに戦場で負傷したり、災禍に遭ったり、家業をなくしたりした人々の生活を豊かにすることを考えると、私の心は深く痛みます。
思えば今後、我が国が受けるであろう苦難は尋常なものではないでしょう。
私は国民の心中もよくわかります。
しかし、情勢の移り変わりはやむを得ないことなので、私は耐えられないようなことも耐えて、我慢できないようなことも我慢して、将来のために平和を実現しようと思います。
私はここに国家体制を維持することができ、忠義で善良な国民の真心を信じ、常に国民と共にあります。
もし、感情の激するままに争い事をしたり、同胞同士が互いに相手をけなし、陥れたりして、時局を混乱させ、そのために道を誤り、世界の信頼を失うようになれば、それは、私が最も戒めるところです。
挙国一致してこの国を子孫に伝え、我が国の不滅を固く信じ、国家の再建と繁栄への重い任務と遠い道のりを心に刻み、全ての力を将来の建設に傾け、道義心を向上させ、志を強固にして、我が国の美点を発揮し、世界の進歩に遅れないように努力しなければなりません。
あなた方国民は、私の思いをよく理解し、それに従って行動してください。 |
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反大和民族主義者の銭が命の大嘘吐きの和名を名乗る朝鮮人が捏造した大嘘の歴史・明治維新!
以来、日本は長州人(和名を名乗る朝鮮人)が乗っ取った日本、天皇家(混血)も加担!
日本が祖国の唯一の大和民族の日本人と日本に暮らす外国人、世界の国々と人々は以来、155年間、反大和民族主義者の銭が命の大嘘吐きの和名を名乗る朝鮮人が牛耳る日本の政府(政官)と統治機構(政官財)に騙され続けている、今も・・・ 被害者は既に、多い! |
2023・8・15 (1/3ページ) 井出 倫 文春 井出倫よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し記事を書け!
折り重なった死体を兵隊がトラックに…「地獄絵図でした」“100歳の元従軍看護婦”と「2週間以上続いた腐臭」 |
「記事内容」
〈やせ細って妄想にとりつかれた兵士たち、日光が入らないように病室に暗幕を…100歳の元「従軍看護婦」の見たもの〉 から続く
【画像】本土空襲に見舞われた東京。国会議事堂の変わり果てた姿
1923年(大正12年)に生まれ、今年100歳になった元
「従軍看護婦」の土屋美代子さん。 ※顔相・体形・土屋美代子よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明しものを言え!
戦時中、戸塚海軍病院で看護婦(師)として忙しい日々を送る当時20代前半の土屋さんだったが、戦火はいよいよ足元まで忍び寄ってきていた。
1945年(昭和20年)2月15日、B29による爆撃で道路の向かい側にある衛生学校に被害が出た。
多くの死傷者が出たのを皮切りに、街外れだった戸塚地区でも空襲の被害を受けるようになる。
土屋さんも艦載機による機銃掃射で九死に一生を得た。
5月以降、入院患者を福島の飯坂、山梨の身延、静岡の可睡などに設けられた分院に疎開させる作業も始まった。
8月には終戦が迫っていた。
◆
雪の降った次の日の空襲。爆撃の中、遺体を担架に乗せていっしょに避難し…
――終戦の年の2月15日でしたか、空襲で向かいの衛生学校が被爆したそうですが、その時のことを覚えていますか?
土屋美代子さん(以下、土屋)
よく覚えています。あれは雪が降った次の日で、煌々とした月があたりを照らして明るい晩でした。
宵くらいに空襲警報が鳴ったんですが、その直後に患者さんがひとり亡くなられて、ご遺体を担架に乗せていっしょに避難しました。
――爆撃の中、ご遺体とですか!?
土屋
海軍というところは、陸では遺体はなるべく原隊(所属先)に帰そうとするんです。
そしてその手続きが済むまでは、病院の責任ということなんです。
このときは病院の方には被害はありませんでしたが、衛生学校と軍医学校の校舎が焼夷弾で真っ赤に燃え上がりました。
さすがに怖かったですね。
月明かりで建物の屋根に描かれていた大きな赤十字が飛行機からも見えたはずですが、そんなことはおかまいなしでしたね。
〈土屋さんは内科病棟担当だったため直接は関係しなかったが、このとき外科病棟にはトラックに山積みの負傷者が運び込まれ、廊下がけが人でいっぱいになるほどの惨状だったという(横浜市史資料室:市史通信第44号「戸塚海軍病院看護婦の日々」羽田博昭 より)。〉
「手の指くらいの大きさが…」身体のすぐ脇を通り抜けた機銃掃射の弾丸
――病院の周辺が被害に遭ったこの日の翌日から、横浜地区は連日艦載機の大群に襲われるようになっていったと聞きました。
土屋
毎日のように空襲警報が鳴っていました。
警報が鳴ると、動けない患者をベッドの下に隠し、動ける患者とともに防空壕に避難するんですが、ある日避難のために病棟を出た私たちは、いきなり上空50メートルくらいから機銃掃射を受けました。
すぐに地面に伏せましたが、弾丸は5メートル間隔くらいでバリバリと砂煙を上げながら着弾、すぐ脇を通りすぎていきました。
解除後に病棟に戻ると、手の指くらいの大きさの弾丸が落ちていましたね。
――3月10日の東京大空襲も強く印象に残っていらっしゃるそうですね。
土屋 その日は避難するとき、防空壕の入り口で空を見上げると、東京の方角が真っ赤になっているんです。
そこにB29だという大きな飛行機が飛んでいる。
なんともいえないような光景で、当時、砂町(現在の東京都江東区東部)に姉が住んでいたので気が気ではありませんでした。
空襲後の東京。焼け野原、屍、そして腐臭…
――安否を確かめに行かれたのですか?
土屋
その後の最初の外出日に病院から特別許可をもらって東京へ行きました。
東京駅から砂町までは徒歩です。
道すがらはずっと焼け野原です。
防空壕の入り口に手をかけたまま死んでいる人がいたり、途中渡った川の中では、材木の上に大勢の人が折り重なって死んでいるんです。
兵隊がそれを大きなピンセットのようなものではさんで持ち上げて、放り投げるようにトラックに積んでいく。
地獄絵図でした。
あたりにはなんともいえない腐臭が立ち込めていました。
たどりついた砂町も、被害を受けてはいましたが、幸い姉も姉の家も無事で胸をなでおろしました。
ただ、あの腐臭は病院に戻ってからも2週間以上も鼻について離れませんでした。
終戦のその瞬間「ラッパ吹奏と同時に軍艦旗を降ろしたんです。降ろされていく旗を見ながら…」
〈戦いは激しくなるばかりで、一部の患者の地方分院への疎開転院も相次いでいたが、新規入院患者も運ばれてくる。土屋さんたちは空襲におびえながらも日々の勤めを必死にこなしていた。そんな中で、8月には広島・長崎に原爆投下。同9日には、「長崎に敵の新型爆弾が投下された。外出には充分注意せよ」との訓示があったという。そして、いよいよ8月15日……。〉
――当時、本土決戦などという言葉も叫ばれていましたが、なにか体制が変わったなどということはありましたか?
土屋
特になかったですね。
訓示のあった翌日には普通に外出してましたし。
“半舷上陸”といって、班のうち半分ずつが交互に外出できたんです。
もっとも、門限までには帰って来なければならなくて、行ける範囲も横浜くらいまででしたが。
――8月15日、終戦の日のことを教えてください。
土屋
海軍ですから、陸にある海軍病院のような施設も軍艦と同じように軍艦旗を揚げていたんですが、終戦のときは本部前に集合がかかり、玉音放送を聞いたんです。
その後、
「軍艦旗降下」といって、ラッパ吹奏と同時に軍艦旗を降ろしたんです。
玉音放送を聞いたことより、このほうが印象に残っていますね。
降ろされていく軍艦旗を見ながら、みんな泣きましたよ、なぜってことじゃないんですね。
泣いたのはね。
なぜ泣いたかなんてわかんないですよ。
そして、海軍で航空機に乗っている弟のことを考えていました。
〈海軍の水上機搭乗員として佐世保の航空隊に所属していた弟・土屋正男さんは、終戦までわずか一月半ほど前の7月2日に空戦で戦死していたことが後でわかる。〉
「私たちは自決用の注射液を確保して持っていました」
――終戦を知らされた後は……?
土屋
患者を原隊や、原隊がない人は直接郷里に帰すなどの残務整理に追われていました。
「(日本占領軍最高司令官)マッカーサーからの指令で、看護婦はみな防空壕に押し込められて殺される」などというデマが流れて、私たちは自決用にアヘンアルカロイドの静脈注射液を薬局で確保して持っていました。
占領軍が来たらこれで死んでやろうと思っていたんです。
でもある兵隊さんに、
「土屋看護婦、死んではいけない。生きておばあさんになって、若いときの話を孫たちに聞かせるんだ。それまで死んではいけない」と諭されました。
私はいままで独身を通していて孫はおりませんが、こうして皆さんが話を聞きに来てくれて幸せです。
本当にありがとう。
兵隊たちの「語られなかった言葉」
――あの頃について、なにか思うところはありますか?
土屋 今となってはかなわぬ望みでしょうが、当時の兵隊さんにはお会いしたいですね。
みんなシラミだらけでやせ細って帰って来て、もっと親切にしてあげればよかったと思います。
兵隊さんも箝口令でも敷かれていたのか、戦地でのことは話しませんでしたね。
あまり戦地の厳しい状況を話してしまうと、内地の人たちの士気をくじくことにもなりますからね。
ただ、兵隊さんの目を見て、
「つらい思いをしてきたんだな」と想像するばかりでした。
自分が帰って来ても、まだ戦友たちは戦地で戦っているわけですから、ほっとしたような顔をしている人は一人もいませんでしたよ。
戦友というのは結びつきがすごく強いものなんですよ。
◆◆◆
※この記事はインタビューと合わせ、土屋さんの自著「過ぎた歳月」の記述を加えて構成しています。 |
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和名を名乗る朝鮮人が捏造した大嘘の歴史・明治維新!
以来、日本は長州人(和名を名乗る朝鮮人)に乗っ取られた日本、天皇家(混血)加担!
大和民族の日本人と和名を名乗る朝鮮人に区別が必要!=国家犯罪! |
2023・8・15 (1/4ページ) 岡本裕輔 読売新聞 岡本裕輔よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し記事を書け!
米軍基地は「ふるさと」 かつての敵国の職場で50年間働いた男性がつなぐ記憶 #戦争の記憶 |
「記事内容」
米軍基地はふるさと――。
戦後、食べるために米軍基地で働き始め、施設も含めて約半世紀の間、
「米軍一筋」で働いた神奈川県相模原市の山岸恒雄さん(94)はそう振り返る。 ※山岸恒雄よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明しものを言え!
海軍に所属していた山岸さんが身を置いたかつての敵国の職場は、貧しかった生活から抜け出させてくれたが、傷ついた兵士の姿も目の当たりにした。
今年は戦後78年。
あの頃を伝える風景は大きく変わるなか、米軍基地が山岸さんの記憶をつないでいる。
【写真】米軍の病院内の食堂で働いていた頃の山岸さん。「働き者バニー」と呼ばれた
「もう行くところはない」 海軍に志願
東京・浅草で生まれた山岸さんは姉が2人おり、早くに父を病気で亡くした。
母の再婚で別の場所に引っ越したが、義父との折り合いが悪く、約5年後には神田に住む長姉の家へと身を寄せるなど、東京を転々とする生活だった。
しかし、長姉にも家族がいる。
海軍の募集を知ると、
「もう他に行くところはない。これはチャンスだ」と長姉には告げず志願し、合格した。
当時16歳、戦争末期で敗戦の色が濃くなっていた時代。
周りの大人たちは
「神風が吹いて日本は必ず勝つ」
「天皇陛下のために軍隊に入れ」と言っていたが、山岸さんはそれより
「家から出よう」という一心だった。
山岸さんは、神奈川県横須賀市にあった海兵団で新兵教育を受けた後、横浜市の部隊に配属され、主に食事などの業務に携わった。
1945年8月15日、ラジオが置かれた広場に集まり、玉音放送を聞いた。
放送は、雑音や難解な内容のため理解できなかった人も多く、山岸さんも先輩に聞いて、敗戦を理解した。
米軍が来ることを恐れたのか、先輩から
「武器を隠せ」と命令され、大量の機関銃や手りゅう弾をかき集めて、大きな井戸に放り投げた。※正しい日本語→放り込んだが正解!
「こんなに……」 焦土でこみ上げた怒り
東京に戻った山岸さんが見たのは、一面の焦土だった。
家族と行ったデパートは廃虚と化し、駅は避難者であふれている。
焼け野原に、黒くなった死体が転がっていた。
「こんなにやりやがって」。
アメリカへの憎しみがこみ上げてきた。
神田の家に着くと、長姉の家族は長野県に疎開していると近所の人から教えられた。
長野で1年ほど過ごしたが、食糧難にあえいだ。
農家の人に
「今日は何を持ってきたの?」と言われ、家にあった腕時計やネックレスと、サツマイモや米を交換してもらった。
皆が生きるため、必死だった。
仕事はなく、長姉が神奈川県座間市の友人に
「兵隊から帰ってきた弟が困っている」と手紙を書いてくれた。
そこで紹介されたのが、座間市と相模原市にまたがる米軍基地
「キャンプ座間」での仕事だった。
「戦争は終わりましたから」
戦時中、激しく戦ったアメリカの基地で働くことに、抵抗はなかった。
自分が食べて生きていくことが最優先で、かつての敵国への憎しみは消えていた。
英語も簡単な単語しか分からなかったが、
「貧しい暮らしを何とかしたかった。仕事の募集は、本当に助け舟だった」
雇ってもらえるか不安に駆られながら、基地へ向かうと、ゲートの前にはマフラーや銃を身につけ、手を後ろで組む身長1メートル80センチくらいの衛兵が立っている。
山岸さんを見て指先をチョイチョイと動かし、
「こっちへ来い」というジェスチャーをしているが、当時は意味が分からず、立って眺めていると
「カモーン!」と呼ばれた。
「ユー ワーク?」と聞かれ、
「イエス」と答えると、事務所に通された。
事務所には自分と同じく、基地での就職を希望する15人ほどの日本人の男女が並んでいた。
採用の担当者は日本人に見えたが、国籍は分からない。
面接を受ける側は長いテーブルに4人ほどが横に並び、山岸さんは担当者に、
「帝国海軍に所属していました」と正直に伝えたが、日本語で
「もう戦争は終わりましたから」と言われただけだった。
「下っ端とはいえ、海軍にいた自分に仕事なんかくれるのか」と心配だったが、無事、採用が決まり、
「明日、朝8時に来るように」と言われた。
施設の充実度に国力差を痛感
働き始めたのは18歳の頃。
最初の仕事は、基地内のスポーツクラブで、運動に来た兵士へのシューズの貸し出しや清掃だった。
英語で話しかけられても内容が分からず、黙って相手の顔を見ていると、頭を指さしながら
「ユー オーケー?」と言われたこともある。
英語を話せず日本人の同僚が仕事に消極的になるなか、山岸さんはカタカナで英語を手の甲に書き、
「私がやります」と率先して働いた。
兵士が話す英語を覚え、次第に聞き取れたり、話したりできるようになった。
しかし、当時は食糧事情が悪く、家から持ってきたサツマイモ2本が1食分だった。
基地の中と比べれば、兵士たちの体格も、売っているハンバーガーやピザのサイズも、施設の充実度も、日本とはまるで違う。
「これは戦争にも負けるよな」と、国力の差を実感した。
一番つらかったのが、基地であった野球の試合だったという。
山岸さんが、兵士たちが使ったバットを片付けていると、出店で売られているホットドッグやスペアリブのおいしそうな匂いが漂ってくる。
しかし、買うことも、分けてもらうこともできない。
ひもじい食生活を送っていた山岸さんにとって、あの匂いは我慢できなかった。
「あれは罪だよ、たまらんかったですよ」と振り返る。
働き者の「バニー」
スポーツクラブで働いた後、今度は少し離れた米軍の病院にある食堂に移った。
注文を聞いて配膳したり、清掃を行ったりするのが仕事だ。
食堂には戦地で負傷し、車いすに乗っている兵士の姿もあった。
戦場でのつらい体験を思い出したのだろうか、
「気分が悪くなったみたいで、食事を途中でやめる人もいた」という。
日本は戦争が終わったが、海外ではまだ続いているという現実だった。
ただ、楽しみもあった。
兵士たちが口をつけなかった食事を、同僚が取っておいてくれて、後で分け合って食べた。
「同僚が『今日はトーストがあるよ』なんて教えてくれて。1週間に1回、あるかどうかだったけど、こっちはサツマイモしか食べていないから、助かった」
音楽が好きだった山岸さんはその後、兵士らが利用する米軍のナイトクラブに移り、カクテル作りなどを10年ほど担当した。
クラブには他の基地からも兵士が駆けつけた。
椅子やテーブルが飛び交う激しいケンカもあったが、バンドの生演奏が聴けるのがうれしかった。
チップをはずんでもらうこともあった。
身長約1メートル60センチでよく働く山岸さんは、ウサギみたいだと
「バニー」という愛称で慕われ、米兵の友人もできた。
横浜などに一緒に飲みに行くと、彼らは酒が強く、ジョークもしゃれていた。
その後は再びキャンプ座間に戻ってゴルフ場で事務を担当し、70歳頃に退職。
約50年間、米軍基地や施設で働き、優秀な勤務成績で在日米陸軍から賞状をもらったこともある。
武器を投げ込んだ井戸 跡形もなく
「ワット ハプンド トゥディ?」(今日何があった?)、
「ナッシング ハプンド」(何もなかった)
山岸さんは現在でも時折、自らに英語で語りかけて英語で答えている。
「英語を話す機会はもうほとんどない」が、忘れないための努力だという。
1年ほど前、山岸さんは懐かしさから、かつて配属された横浜市の部隊があった場所を訪れた。
現在は小学校などになっており、武器を投げ込んだ井戸は跡形もなくなっていた。
学校の先生とも話したが、当時のことを知る人はいなかった。
米軍基地との不思議な縁
戦争がなければ、米軍基地もなかったかもしれない。
一方で、東京を転々とした後に長野で過ごし、はっきりとした故郷の意識がない山岸さんにとって、
「米軍基地はふるさとのような存在」だ。
「貧しさから抜け出すことができ、今の生活がある」のは、ふるさとのおかげだった。
今もふと、山岸さんはあの頃の職場の写真を手にし、当時を思い出す。
同僚たちは既に多くが亡くなり、武器を隠した井戸も、傷ついた兵士を目の当たりにした病院の食堂も、もうない。
戦後70年以上が経過し、戦禍や戦後の激動を生き抜いた山岸さんの記憶を、米軍基地がつないでいる。(岡本裕輔)
※この記事は、読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です
※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書を元に取材しました。
ヤフーニュース投稿記事
宮本聖二 立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長 ※宮本聖二よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し投稿しろ!
戦後、冷戦が始まったことでアメリカは、日本をソ連、中国に向き合う防波堤にしました。
朝鮮戦争時は出撃拠点に。
日本経済は、基地への資本投下の恩恵を大きく受けました。
また、日本を西側に組み込むため1ドル360円の円安レートで経済復興をさせます。
作って輸出すれば売れる構造です。
一方、アメリカの戦略に組み込まれることへの疑問から反安保の機運も高まります。
本土の基地は縮小していき、占領下の沖縄に移転させていきます。
特に沖縄は、製造業が成り立たず基地依存を強めました。
復帰前の基地労働者は、ベトナム戦争への加担に苦しみ、全軍労を組織して反戦を訴えました。
そして、復帰と続く基地負担。
在日米軍基地は、沖縄の他に現在三沢、横田、厚木、横須賀、岩国、佐世保などにあります。
戦争を起点に、それぞれの地域で人々が基地とともにどう生きたのか、その記憶と記録も現在地と未来を考える大切な資料になります。 |
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大和民族の日本人と日本に暮らす外国人、世界の国々と人々は和名を名乗る朝鮮人が捏造した大嘘の歴史・明治維新(長州人が仕掛けた国盗りクーデター+混血・天皇家)以来、和名を名乗る朝鮮人が牛耳る日本の政府(政官)と統治機構(政官財)に騙され続けている、今も・・・!既に多い被害者!
日米戦争(太平洋戦争)は和名を名乗る朝鮮人とGHQの合作(大和民族の日本人殲滅作戦)!
大島満吉と大嶋宏よ、ロシアの戦争犯罪に言及しろ!
引揚者の婦女子は朝鮮半島で再び、受難!
日本政府は外地の遺骨収集に消極的だが、「理由」は政府が隠す日本の「人種問題」!
朝鮮人が帰化しようが、日本国籍を取得しようが、和名を名乗ろうが、朝鮮人は朝鮮人! |
2023・8・15 文春 文春は和名を名乗る朝鮮人の巣窟・政府の工作機関、社員は工作員!
「女性や子どもの悲鳴が響き、草原は血の海」ソ連軍が約1200人の日本人を襲撃、虐殺した「葛根廟事件」生存者が目撃した“光景” |
「記事内容」
近年、驚くことが増えた。
SNSで見かける、戦争や戦争をテーマにした作品への視線のことだ。
野坂昭如原作・スタジオジブリ制作の映画『火垂るの墓』の捉え方には一瞬、呆然となった。 ※明らかに人種が違う、故・野坂昭如の曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!
【貴重画像】キャタピラで踏み殺される人、機関銃で撃たれる人…約1200人の日本人が虐殺された「葛根廟事件」を写真で見る
主人公の少年・清太を責める書き込みが目立ち、そこに数千の
「いいね」が付く。
たしかに彼は勤勉さも礼儀もない少年。 ※原点はひねくれ者の和名を名乗る朝鮮人!
4歳の妹と空襲で焼け出され親戚の叔母さん宅に2人して身を寄せるものの、ろくに御礼は言えず、学校へも行かず働きもせず、食事は減らされてしまう。
SNSの人々は、おばさんは悪くない、清太が苦境に陥るのは
「自己責任」なのだという。
どちらか一方が、なっていない、なっている、という次元の話。
この国は平和なのだとあらためて実感するほかない。
世間にありふれた生意気な少年と、そんな不遜な子どもが育てるしかない少女。
どれほど無礼だろうとそれでも、ほんとうは大人や社会が2人を包み、守るべきなのに、守れない。
肉親のおばさんでさえ守れない。
14歳と4歳、2人の子どもが死に追いやられていく静かな恐怖と、大人のエゴイズムの醜怪さ。
自身の体験をもとに野坂が描き出した戦争の様を、かつて世間は素直に読み取れていたはずだ。
戦後80年に迫る今、2人の子どもの暮らしを想像できないだけでなく、
「自分も同じ状況ならあのおばさんになるかもしれない」と背筋を冷やす人が、減った。
今や爺ちゃん婆ちゃん世代も戦後生まれ。
身近にいた戦争体験者はもういないのだから仕方ないのかもしれない。
こんなときこそメディアの出番のはずだが、本格的な戦争特番は地上波テレビでは昔ほど放送しない。
一方、ウェブ上で見かけるのは、戦時下の政治家の動きを追う政局風記事や、大海戦の模様など戦闘を追った戦記物風記事。
閣僚や提督の気持ちで戦争を眺め、あのときこうすれば、と振り返るのも大切に違いない。
ただ筆者は、14歳と4歳の、
「子どもの目」になって、今こそ再び、あの戦争を見ていただきたいと願う。
終戦間近、満州国の平原で起きた凄まじい殺戮「葛根廟(かっこんびょう)事件」
まだ、
「子どもの目」を語り継いでくれる人がいる。
大島満吉氏。
昭和10年生まれの87歳。
78年前、終戦前後の時期、9歳の大島は言葉にできない体験をした。
それをおして、言葉にし続けている。
子どもだった彼の目に次々に映った光景は、私たちがいつでも考えねばならない問いを、提示し続けていると私には思えてならない。
語る証言の壮絶さとミスマッチな微笑み。
それは聞く者が身構えないよう、そしてただ
「悲劇」と捉えて終わらないよう、配慮しているように見えた――。
昭和20年8月14日、日本政府がポツダム宣言受諾を連合国に通達し、戦争終結に向かっていた日の正午近く、満州国(現・中国東北部)の平原では、凄まじい殺戮(さつりく)が始まっていた。
満州国とソビエト連邦との国境近くの草原で、約1200人の人々が戦車の銃砲撃と兵士の機関銃に撃たれ、キャタピラで踏み殺されたのだった。
老人、女性、子ども主体の集団。
執拗な攻撃によって、生き残れたのは400人ほどしかいなかったとみられ、さらに翌年になって帰国できたのは、たったの百数十人に過ぎなかった。
正確な犠牲者数は今もって分からない。
集団は、日本人居留民たち。
ソ連の対日参戦を知り、葛根廟(かっこんびょう)と呼ばれるラマ教寺院に向け、8月11日から逃避行を続けていた。
彼ら彼女らは興安街(こうあんがい。
現・内モンゴル自治区ウランホト市)という市街地に住んでいた人々。
馬車や自動車はなく、8月の平原の陽ざしに炙られ、渇きに耐えながら歩き続ける人々は疲れ切り、遅れる人も目立ち始め、隊列は蛇行して長くのびていった。
そこへ突如としてソ連戦車部隊(14台とも言われる)が現れ、1時間以上に渡って徹底的な攻撃を加えたのだった。
これを
「葛根廟事件」という。
避難民に混じっていた在郷軍人たちが、身辺警護用の小銃などわずかな武器を持っていたために、ソ連軍に敵と見なされ攻撃を受けたとも考えられたが、一見して非戦闘員と分かる民間人の集団を一方的に攻撃した理由は不明。
ソ連側の戦史には戦闘の記述は一行もない。
痛い、痛い、と泣く娘を
「お母さん、首を締めちゃった」
襲撃直後、避難民を指揮した浅野(良三)隊長は白旗をあげて、戦車へ近づいたというが、真っ先に殺害され、最期を見たものはいない。
彼の死を皮切りに避難民への攻撃がはじまる。
身を隠すものもない草原で伏したまま戦車に踏みつぶされた人々、天然の壕(平原の大きなくぼ地、溝)に逃げ込みながらも、そこまで下りてきたソ連兵たちの乱射で折り重なって亡くなった人々。
女や子どもの悲鳴が響く草原で、血の海で死んでいる母にすがりつく赤ん坊。
からくも壕のなかに逃げ込んだ人たちのなかに、9歳の大島もいた。
母と5歳の弟、2歳の妹と4人だった。
一緒にいた兄と父は、隊列が何キロにも及ぶうちいつしか離れて消息がわからなくなっていた。
1時間半ほどの攻撃がやむとソ連軍は去り、あたりが静まる。
おびただしい遺体の中、生き残ったわずかな人々には水も食料も医薬品もほとんどなく、男手も少なかった。
疲れ切り傷付いた女たちは、子どもを連れて、どこへ行くあてもない。
戻るにしても興安街はすでに暴動が起きているという。
大島少年が父を探し付近をさまよっていると、顔見知りの女の子とその母に会う。
娘は重傷を負っていた。
「H(取材時実名)さんっていう奥さんが、恵子ちゃんっていう国民学校2年生の娘と一緒にいた。恵子ちゃんは足を撃たれててね。『痛いよ、痛いよ、お母さん痛いよ』って泣くんだよ。お母さんもなんとかしてあげたいんだけど、方法もないんだよ。それで……お母さん、首を締めちゃった」
攻撃によって、Hさんの夫、そして大島と同級生の定夫君もすでに殺されていた。
精根つき果て、到底生きのびられないと観念した彼女は、恵子ちゃんの目の前で、5歳の息子、生まれたばかりの赤ちゃんの首を手ぬぐいで――。
大島の兄、大嶋宏生が残した手記にこの母娘を記した箇所がある。
〈 この様子の一部始終見ていた恵子ちゃんは自分も殺されると悟り「母ちゃん。あたいは死にたくないよ。死にたくないよ」すでに足に重症を負い死の恐怖を味わった恵子ちゃんは、死を恐れ母に抵抗し泣き叫び哀願していた。でもおばさんは悲壮な表情で無理矢理絞め殺してしまった。(『コルチン平原を血に染めて ―少年の目撃した葛根廟事件』大嶋宏生著 全国興安会通信社)〉
足がぶらぶらとなり、出血多量、助からないほどの深手を負いながら首を絞められ、グッタリした少女の生命力は、それでも尽きなかった。
大島は言う。
「それがね、生き返っちゃったんだよ」 前掲書から続きを抜粋する。
〈 死にたくない執念からか20分位すると恵子ちゃんは息を吹き返し、またおばさんの所へ足を引きずりながら「母ちゃんあたい死にたくないよ」おばさんはまたも恵子ちゃんを捕まえ首を絞める。恵子ちゃんは生きたい一心で母に頼めば今度は許して貰えると思ったのだろう。 「死にたくないよ」「今死なないと死ぬときはないのよ。お母ちゃんもあとから行くから死ぬの!」恵子ちゃんは泣き叫んで最後の土壇場まで暴れていたという。〉
7歳の女の子がなにか悪いことをしただろうか。
助からない傷を負い、母に2度までも手にかけられることを。
では、母だけが悪いと言い切れるか。
できないとすれば、では誰が、何が悪かったのか? この人々に少しでも
「自己責任」があったろうか。
けが人、女性、子どもが次々と自決し、次は自分と弟の番が…
壕のなかで進退窮(きわ)まった人々は100人あまり。
うち動ける数十人が決死隊としてどこかへ去った。
結局、傷付いて身動きが取れない人、そして女性と子どもは、全員、自決と決まる。
リーダー格となっていた在郷軍人の幾人かで決めたようだ。
暗い壕のなかで人々の自決が始まる。
大島の母も覚悟を決めた。
撃たれて倒れていた在郷軍人の傍らに転がる軍刀に手をのばすと、
「その男の人、死んでると思ったの。でも『奥さん、早まっちゃいけない。生きるんだ、早まっちゃいけないよ』って。その人は自分は死ぬのは分かってんだけど。『あんたたちはどこも怪我してないんだから頑張んなさい』って言うんだね。だけどね、もう何を言われても、母は(生きる)道がめっかんなかった。無視して、日本刀を借りた」
大島の母は、逃避行中ずっとおぶってきた2歳の美津子ちゃんから手をかける。
お聞きしなければならない。
――妹さんの、その場面は、覚えていますか。
どのような場面を語るときも、
「悲劇」を押し付けることにならないよう、一方的な物言いにならないよう、微笑をあえて絶やさなかった大島の声は、妹の名を呼ぶときはわずかに震えた。
「覚えていますよ」 ご飯も食べられず、弱っていた美津子ちゃんはうつらうつらし、母はほおずりしながらしばらく抱きしめていた。眠ると、毛布を敷いてそっと寝かせた。
それから軍刀を抜いたのだった。
美津子ちゃんの次は、弟と自分の番だ。
壕内ではすでに自決のための長い列ができ、最初は銃撃だった自決のほう助も、銃声がすればソ連軍に見つかるからと、途中から刀に切り替わっていた。
3人ほどの男たちが刀で列に並ぶ人たちの介錯(かいしゃく)をしていく。
すぐに絶命する人ばかりではない。
急所を正確に突けないと、首を押さえて血まみれのままのたうち回ったり、立ち上がってしまう人もいた。
「御免!」の声とともに振り下ろされた刀が女性の首を飛ばす光景。
その傍らで、突然、子どもたちによる最後の晩餐がはじまる。
戦車に応戦して爆死した国民学校の校長先生の娘・蓉子ちゃんは食料を持っていた。
彼女が呼びかけたのだった。
お母さんも撃たれて亡くなり、大島より少し年上の蓉子ちゃんは赤ん坊を背負い、弟の手をひき、大島たちと一緒にいた。
後ろで、傷付いた人々の自決が続く前で、彼女はいきなり、そしてつとめて明るく、
「さあみんなここへ集まって」
「これからママゴトがはじまるみたいね!」と、亡くなった母の横で角砂糖や干しうどんをふるまいだした。
大島もひとつもらい、ボリボリと生のままかじった。
――これから、僕ら、死ぬのに。味のない味を、今も覚えている。
自決にこだわった母の気持ち
さあまもなく自分の番か……と思った矢先、介錯し続けていた3人の大人たちは疲れのためタバコ休憩に。
ちょうどそのときだった。
奇跡的に生き残っていた父と兄が飛び込んできたではないか! 大島少年と弟、母を見つけ、列から引きはがしてくれたのだ。
これで彼は、生き残った。
あのままだったら――そのときの母の気持ちを、大島は振り返る。
「僕は自決に並んで、順番が来た時にね、母がなんて言うかなってのは、後で考えたんだよね。おそらく私に、『お前はどうしても死にたくないのか』と。ないんだったらね、『生きるところまで、自分で生きてみるか』と。でももう誰も助けてくれないよ。ここで死なないんだったら、お前1人で行けるところまで行くか。おそらくね、母は最後に言ったんだろうなとは思うよ」 もし列に並んだままだったなら、最期のとき、母は何と言ってくれただろうか、僕のことも殺めただろうか――いや、違う。
――大島はこう解釈して、戦後七十余年、気持ちの平穏を守ってきたのかもしれない。年月を重ねるうち、自決をしたがった母の気持ちがもう1つ分かってきた。
「これは今まで話していないのだけど」と前置きし、
「母はあのとき妊娠していたの。(事件後、避難民を収容した)新京(満州国の首都。現在の吉林省長春市)で生んだけどね、育つことは最初からもうないんだから。お乳は出ないわ、暖房はないわ、オムツは替えられないわで。難民生活だから。生まれたらもう何日か泣かしとくだけで、結局もう育たないってのは、私たちだってなんとなくわかりますよね。そこまで追い込まれてる。たまたま新京の家の中で生まれたけど草原のままで産んでいたら。だから母は自決にこだわったんだなと」
母の存命中、美津子ちゃんのこともその下の名前も付けられなかった赤ちゃんのことも、写真1枚さえない2人の最期が話題にあがることはなかった。
外部へも、母の死後、発表した。
避難よりも自決を勧めた指揮官の責任は
話すことなどできない。
死んだ者と生き残った者、という意識。
2年生の娘・恵子ちゃんを2度も手にかけてしまったHさん。じつは戦後、生還している。
「新京で行き会った。新京ではHさん、逃げるようにしてね、絶対口きかなかった。絶対。やっぱり話せないんだね」
「話せない」、ということについて重ねて聞く。
――集団自決の介添えをしていた在郷軍人3人、戦後も生き延びたと大島さんの手記にちらと書いてありましたが。
「……あの時に(自殺のほう助を)やってた人ってのはね、Xさん(取材時実名)たち3人くらいがいたんだと私は思う。Xさん、戦後に、毎回五百羅漢寺の慰霊に来てくれた。でも戦争の現場の話になるとしない。(生存者の)みんなが『Xさんだけは知ってるでしょ』って聞こうとするわけよ。でも時を見計らって、さっと帰っちゃうわけね」
目黒の五百羅漢寺は、大島ら事件の生存者・遺族による慰霊団体
「興安街命日会」による慰霊祭が毎年行われるお寺。
諦めきれない大島は、X氏の死後、北関東に住む遺族に連絡をとった。
「Xさんの自宅は分かっているわけ。奥さんは現場で亡くなっているけどね。電話したらね、女性の方が出た。何か書き残してるものはないんでしょうかと聞いたら、ない、と。ないんだけど……じゃあなぜ残さないんだとね。偉い方だったんだから。いろんな状況の最後の結末、一番よく知ってるはずなわけだから」
戦争の記憶は確かに風化してきている。
裏腹に、当事者が鬼籍に入ることで人間関係・利害関係も希薄化して、これまで話されなかった部分が、顔を出すこともある。
私は一瞬、それに触れた気がした。
「小さい子は親が手をかけなさいと(X氏たち)指揮官の人が言った。……あの時に『私たちでよければ行けるところまで行くつもりだから、全部守りきれないかもしれないけど、ついてきて』と(指導者たちが)言ってくれたんなら、みんなおそらくついてったと思うよ」
ほほえみのまま、さらりと大島は言う。
生存者・遺族の慰霊への気持ちは一枚岩なれど、奥底に潜む別の気持ちがにじんでくる。
言うまでもなくX氏も受難者である。
ただし加害性も併せ持っている。 ※これを言っちゃあ~お仕舞よ!
日本人の名誉か、貞潔か、何を守ろうとしたかもう分からないが、避難よりも自決を勧め、ほう助しながら、自分は生き残った責任はそこに発生しないか。
組織内での力関係として上位の者が、下位にあった女性や子どもたちに死を強いた面とその責任。
「話せない人」のなかに、
「話さないとならない人」はいたように思う。
「話した人」の証言だけで歴史は書かれる。
ここが難しい。
〈・参考文献『葛根廟事件の証言 ―草原の惨劇・平和への祈り』(興安街命日会編 新風書房)『流れ星のかなた コルチン平原を血に染めて』(大島満吉 大嶋宏生著)『炎昼 私説 葛根廟事件』(大櫛戊辰著 文芸社)〉 ※大島満吉と大嶋宏よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ! お主は経験談で稼いでいるが、3名の指揮官を非難出来るのか!
取材協力:平和祈念展示資料館
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