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大東亜戦争&日米戦争は質が全く違う!
和名を名乗る朝鮮人「政官」騙され、戦争に招集された大和民族の日本人兵!
年代 / 2026 2025 2024・2023・2022・2021 2020 2019
2019 / 9/1 令和元年2019・5・1
欧米始めアジアの国々は真実の大東亜戦争を知っている
日本人は英霊に感謝し敬い誇りを胸に日本国を立て直そう!
2019・8・14 日本人必見動画!
「日本は謝罪を必要とすることなどしていない」外国人が語る真実!世界各国の要人の証言に衝撃!【海外から賞賛される日本】  

「コメント」
ナシ
 
※多くの投稿あり! 
台湾人が本音を語っている!
大東亜戦争・日米戦を誰が仕組んだのか?
2019・2・22
【林 千勝】日米戦争を策謀したのは誰だ!【WiLL増刊号 #016】 

「コメント」
新刊『日米戦争を策謀したのは誰だ!』を上梓された近現代史研究家の林千勝さんが登場!
平和を企んだ
  「好戦家・ルーズベルト」と
  「国際金融資本家・ロックフェラー」、さらに国際共産主義の策動…
そして、彼らと対峙した
  「非戦派・フーバー」、
  「ピエロ・近衛文麿」はなぜ破れたのか。
前作『近衛文麿 野望と挫折』に続く渾身のノンフィクション作品です。
 
※多くの投稿あり!
現地の外務省の役人が引き継げ!
2019・8・27 サイパン共同 共同通信記者よ、太平洋戦争は存在せず、大東亜戦争アメリカ戦である、嘘を記事にするな!
激戦地サイパンで慰霊祭 帰還者会、高齢化進み訪問最後 
「記事内容」
太平洋戦争中、日米両軍の激戦地となったサイパン島で27日、元島民や遺族らでつくる
  「南洋群島帰還者会」が戦没者慰霊祭を開いた。
今年でサイパン陥落から75年。
高齢化に伴う参加者減少のため、50回目の節目となった今回で団体での慰霊訪問は最後となった。
島北部にある
  「おきなわの塔」前で実施し、地元関係者も含め150人超が参列。
那覇市から訪れた上運天賢盛会長(87)は「各地で悲惨な戦争体験を語り継ぐ活動が続いている。
心安らかにお眠りください」と追悼の言葉を述べた。
日本人はシナ帰りの話を聴く場合、当時の時代背景を知った上で話を聴け!
2019・8・26
民医連戦後70年証言 元従軍看護師 肥後喜久恵さん(91)  
「コメント」
2015年6月21日 東京民医連第40回看護介護活動研究交流集会で行われた記念講演を23分に編集したものです。
肥後喜久恵さんは1924(大正13)年、長野県の伊那谷の養蚕農家の次女として誕生。
戦争のため、日赤長野の看護学校が1年半で繰り上げ卒業となり、従軍看護師として中国へ向かう。
中国の興城の陸軍病院で終戦を迎え、命がけで引き揚げる途中、奉天(現瀋陽)で八路軍(中国共産党軍)の捕虜となり、以後1958(昭和33)年に帰国するまでの13年間八路軍の看護師として活動、錦州戦役など戦場での看護活動も行った。
帰国後は、代々木病院に就職看護副部長、全日本民医連理事などを歴任し、1984年退職
以後は戦争の語り部として活動を続ける。
  
※数奇な運命を辿った肥後喜久恵さん、話の中に八路軍が二度ほど出て来るが、シナ共産党軍である八路軍は日本人医師や看護婦、軍人は丁重に扱ったはず、肥後さんは被害者面して元気に喋っているが、日本人はシナ共産党の仕込みを考慮し話を聴くべきである。 国共内戦1946~1950、共産党の勝ち戦!
   ウィキペディア参考
国民政府軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴用するなどして戦力を強化していた。
日本女性は看護婦などとして従軍させられた
軍の支配地域では通化事件が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。
また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。
日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった
 
※通過事件は1946年2月3日に起きたシナ人による虐殺犯罪である。
 
反日メディアが掻き消す大東亜戦争を経験した宝田昭の悲痛な叫び!
2019・8・23 ライター:石原壮一郎/撮影:幸田大地/Yahoo!ニュース 特集編集部 石原は三重県生まれ、日本人か? 反日ヤフーが宝田昭氏どう伝えたのか?
ソ連兵に撃たれた「ダムダム弾」の痛みは今も――宝田明85歳、戦争体験とゴジラに込めた平和への願い
「記事抜粋」
昭和20年8月15日、宝田明(85)は11歳だった。
当時の満州で終戦を迎えた。
過酷な引き揚げ体験、戦後の窮乏生活、そして映画俳優に。映画『ゴジラ』で初の主演を務めてから65年。
  「ゴジラは人間のエゴの犠牲者」と語る。
戦争、ゴジラ、戦後の日本。
宝田が今だからこそ、今のうちに伝えたい令和へのメッセージとは。
  戦争に負けて体の中に風穴が開いた
宝田の原点には、苦しい戦争体験がある。
日本統治下の朝鮮で生まれ、2歳からは満州のハルビンで育った。
1945(昭和20)年8月15日に敗戦を迎え、暮らしも価値観もすべてがひっくり返った。
  「筋金入りの軍国少年」だった11歳の宝田は、あの日の
  「玉音放送」をどう受け止めたのか。

中略
ほどなくしてソ連軍が満州に侵攻。
大量のソ連兵が戦車で乗り込んできた。
略奪や女性への暴行も目にした。
宝田も危うく命を落としそうになる。

中略
終戦の翌年、一家はハルビンから命からがら引き揚げて、父親の故郷である現在の新潟県村上市にたどり着く。
ぼたん雪が降る寒い日、軒下を借りて魚を売っていた宝田と母親に、ボロボロの軍服を着てヒゲだらけの男性が
  「役場はどこですか?」と道を尋ねた。
ハルピンで行方不明になって、泣く泣く置いて帰って来た3番目の兄の昌夫だった。

つづく
  「ゴジラ」の試写を見て大泣きした
宝田の初主演映画は、1954(昭和29)年11月公開の『ゴジラ』だった。
過酷な戦争体験を背負った宝田にとって、ゴジラとはどういう存在だったのか。

中略
水爆実験で安住の地を追われたゴジラは、東京に上陸して街を破壊する。宝田の役は、ゴジラに立ち向かう調査隊の一員であるサルベージ会社の技師だった。
中略
『ゴジラ』は、観客動員961万人という空前の大ヒットに。
宝田も人気俳優となり、昭和30年代の日本を代表する二枚目スターとして、黒澤明作品の三船敏郎、社長シリーズや駅前シリーズの森繁久彌とともに、東宝の屋台骨を支えた。

つづく
  ゴジラは“平和の伝道師” 
※平和、反戦に利用されたのか? 佐藤健志 箸 「平和主義は貧困への道」 副題「対米従属の爽快な末路」を読め、日本人! 日本国は日本人だけしか守れない、守らないと知れ、日本人!
宝田が特別な思い入れを持つ『ゴジラ』は、その後も多くの作品が作られた。
今や世界中のファンに支持され、アメリカ版の映画やアニメ作品も作られている。
初代『ゴジラ』には原爆や水爆への抗議が込められている。
原水爆を使用した国でのゴジラ人気について、同期生としてはどういう気持ちなのか。

つづく
  自分たちには平和の大切さを訴える義務と責任がある
宝田は10年ほど前から、これまで「封印」していた戦争体験を積極的に語るようになった。 
※南京大虐殺は大嘘と暴露しているが、南京の「な」の字も記事中に無い! これがヤフーの正体である。
中略
俳優としても、公開中のミュージカルコメディー映画『ダンスウィズミー』に出演。
主人公を窮地に追い込むあやしい老催眠術師として、軽妙かつ洒脱な存在感を発揮している。

つづく
 ※日本人ve在日韓国朝鮮人対決! ライブドアは何故、日本の政官財(朝鮮・電通)に潰されたのか? 
事業拡大を急ぎ過ぎたホリエモンが墓穴を掘ったのだが、ネット業界の主導権争いであり、ホリエモンvs孫正義の構図、答えはヤフー(シナ→朝鮮→密入国日本・孫正義)にあり!

天皇陛下は是非、靖国神社に御み足をお運び頂きとうございます!
昭和天皇は日本国の国主として一分の隙なし!
戦後政治の原点・GHQ配下の役人による統治開始!
2019・8・20 東京琉球新報
一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及 53年宮内庁長官「拝謁記」 
2019・8・19  和田武士 毎日新聞
昭和天皇、戦争への「反省」表明望む 初代宮内庁長官「拝謁記」 
「記事内容」
初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が、昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した
  「拝謁(はいえつ)記」が19日、公開された。
全国各地で反米軍基地闘争が起きる中、昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。
専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の
  「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。
沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について
  「反省していたかは疑問だ」と述べた。
田島元長官の遺族から史料提供を受けたNHKが19日、遺族の意向を踏まえ一部を公開した。
それによると、対日講和条約発効により琉球諸島が日本から切り離され米統治となった一方、日本が独立した翌年の53年11月24日の拝謁で昭和天皇は沖縄への具体的言及はないものの基地問題について発言した。
昭和天皇は
  「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。
戦力の不保持などをうたった日本国憲法を巡っては
  「憲法の美しい文句ニ捕ハれて何もせずに全体が駄目ニなれば一部も駄目ニなつて了(しま)ふ」との見方も示していた。
同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と述べた。
旧ソ連など共産主義への警戒感を強め、米軍基地反対運動に批判的な見解を示していた。
51年1月24日には
  「(沖縄不返還のマッカーサー方針について)そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事でたとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)ニなるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」とも述べていた。
田島氏は48年、宮内庁の前身である宮内府長官に就任、49年から53年まで宮内庁長官を務めた。
在任中、昭和天皇との会話の内容や様子を手帳やノート計18冊に書き留めていた。
 
※天皇陛下は日本国の国体をお示し頂きとうございます。
何故なら、日本国は今、共産主義者=グローバリスト、世界統一派(ディープステート)の下僕である安倍晋三以下政官財により日本国が破壊されています。

  (2)
「記事内容」

終戦後に初代宮内庁長官を務めた田島道治が在任中の昭和天皇とのやり取りを詳細に記した文書を残していたことが明らかになった。
昭和天皇は戦争への強い反省の気持ちを1952年5月の独立回復式典で表明しようと考えていたほか、独立前後に再軍備や憲法改正の必要性に言及するなど象徴天皇となった後も政治的な意見を首相に伝えようとしていた。 
※至極当然! 
宮内庁が編さんした
  「昭和天皇実録」に含まれていない内容も多く、昭和史を考える貴重な資料となりそうだ。

  【写真特集  皇室新時代 平成から令和へ】

田島元長官の遺族から文書を提供されたNHKが19日、一部を毎日新聞などメディアに公開した。 
※これで分かる田島元長官と家族の生き様が分かろうというもの、日本国にとって最低最悪の組織に提供したものだ!
文書は
  「拝謁記」と題された手帳やノート。
48年から宮内庁や前身の宮内府のトップを務めた田島元長官が、就任の翌年から5年近くにわたって昭和天皇とやり取りした内容を記録していた。
文書によると、昭和天皇は、独立回復時に国民にメッセージを出すことを望んだ。
草案作りが本格化した52年1月11日に
  「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島元長官に述べ、同年2月20日には
  「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだ」と語ったとしている。
  「下剋上」とは、戦時中の軍に統制が利かなかったことを表現したとみられる。
  「反省」の文字が宮内庁内部の検討で削除されても、戦争を悔恨する一節を入れようとしたが、吉田茂首相(当時)から反対され、最終的には受け入れた。
式典の草稿が変更されたことは、田島元長官の伝記を出版したフランス文学者の加藤恭子氏が文芸春秋2003年7月号で発表していたが、昭和天皇の具体的な文言は知られていなかった。
昭和天皇の
  「肉声」が記された
  「拝謁記」には、昭和天皇が米国とソ連(当時)が対立した冷戦下の安全保障環境に危機感を募らせる内容もあった。
サンフランシスコ平和条約の調印から5カ月後の52年2月11日に
  「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」と再軍備と憲法改正の必要性に言及していた。
旧軍の復活には反対し、独立回復後の同年5月8日には
  「再軍備によつて旧軍閥式の再擡頭(たいとう)は絶対にいやだが去り(原文ママ)とて(ソ連の)侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」と述べたという。
昭和天皇はこうした考えを吉田首相に伝えようとしたが、田島元長官が
  「それは禁句であります」といさめたという。 ※世が世なら不忠者! 
天皇が政治に関われないという新憲法の理念を理解していないような発言から、象徴天皇のあり方を模索していた経緯がうかがえる。
文書では、48年11月の東京裁判の判決の際にGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー司令官に天皇にとどまる意向を伝えた後も退位の可能性に言及していたことも明らかになった。
  ◇本音、肉声が生々しく超一級の資料
  古川隆久・日本大教授(日本近現代史)の話 
長期間にわたり昭和天皇の本音、肉声が生々しく書かれた超一級の資料。
象徴天皇制を始めるにあたり、天皇がどうやってそれを作っていくかを模索していたことが手に取るように分かる。
また、この時期に改憲や再軍備を求めていたことは知られていなかった。
 
※昭和天皇陛下が御隠れあそばした頃から日本は大きく悪しき方向へ歩を進め、令和元年、昭和天皇陛下の意向すら無視、得体の知れぬ安倍政権下、日本は見るも無残な日本国となったのである。
インドネシア人と朝鮮人の大きな人間性の違い!
2019・8・14
同じ日本が統治したk国とは全く違うインドネシアのマドラ島で、なぜ今でも日本の軍歌が…!【日出づる国TV】
「コメント」
ナシ
 
※多くの投稿あり!
  天皇陛下に臣民より上奏!
靖国参拝を心からお願い申し上げます。
英霊は天皇陛下に忠誠を誓い散った忠臣でございます。
英霊に感謝!
2019・8・14 (1/3ページ) 西日本新聞
19歳で戦死、紫電改パイロットの思いとは…胸ポケットに1枚の写真 
2019・8・13 (1/2ページ) 西日本新聞
紫電改「体当たり」の真相 B29と壮絶な空中戦、少年航空兵の最期 (2)
「記事抜粋」
太平洋戦争の終戦からこの夏で74年。戦火を生き抜いた人の多くが鬼籍に入り、当時の体験を語れる人は極めて少なくなった。
昨年から大分県竹田市の山中で、旧日本海軍の戦闘機
  「紫電改」の遺物とみられるガラスや鉄の破片約60点が相次いで発見されている。

  【写真】米国のスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている旧日本海軍の戦闘機「紫電改」

この機のパイロットで、1945年5月5日に19歳で戦死した粕谷欣三さん=埼玉県入間郡三ヶ島村(現所沢市)出身=はどんな思いでこの機に乗り込み、戦場に向かったのか―。
彼が所属した旧日本海軍の部隊「第343航空隊」の元隊員らの証言や関係資料から、若くして命を散らした一人の青年の思いに迫った。
粕谷さんは、海軍が設けたパイロットの養成機関、飛行予科練習生(予科練)出身。
海軍の兵士が軍服姿で帰省し、故郷の学校を訪れると、軍国教育を受けてきた子どもたちたちは羨望の眼差しを向けた。
そうして、多くの少年が予科練を志願し、試験や身体検査、面接を受けた。
競争率は70倍以上に達することもあり、合格者は
  「学校でも近所でも鼻高々だった」という。
召集令状を受けて不本意ながらも兵役に就いた人とは随分と異なる心情だったとみられる。
粕谷さんは予科練の
  「特乙1期生」だった。
この期は、昭和18(1943)年4月に1585人が二等飛行兵として岩国海軍航空隊に入隊している。
当時、戦況は既に緊迫していた。
同じ4月に日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六元帥が戦死。 
※山本五十六は部下を道連れに自殺!
翌月にはアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が全滅するなど、情勢は徐々に悪化していた。
  「とても勝ちよる風ではない…」。
当時、早稲田大の研究所に勤め、戦闘機の翼などに使うジュラルミンの研究をしていた三宅清隆さん(94)=熊本県=は腹の中で思ったという。
どういうルートで入手したのか今となっては不明だが、大学で米国の戦闘機の図面を見て、米国の兵器の優秀さを実感もしていた。
戦争に負けるという危機感を覚えながら、三宅さんは後に予科練に入隊した。
現代なら、旗色が悪くなった時点で日本は敗北宣言をするべきだったという考え方もできるが、当時の若者には
  「この戦争に勝たなければ、日本はどんな目に遭うか分からない」という危機感があった。
三宅さんと同じ年頃の粕谷さんにも共通した思いだったはずだ。
予科練は当初、3年間の教育と、1年間の飛行戦技訓練を課していたが、粕谷さんが所属した
  「特乙1期生」は10カ月~1年2カ月の短期教育だけで戦線に配置された。
戦いが激しさを増す中でベテランが次々と命を落とし、十分な経験を積まないままのパイロットが実戦に投入されていった。
  「一人前になるには1000時間の飛行が必要だが、300時間で出されていた」と三宅さんは語る。
  パイロットたちはどんな思いで闘っていたのか
  使用できる紫電改は20機余りに減っていた
前略
19歳で人生を絶たれた粕谷さんについて、残された記録は少ない。
ただ、胸ポケットには母親の写真が入っていたという話が伝わっている。
戦友の一人は戦後、粕谷さんの思いに応えるようにこんな言葉を残している。
  「僕の代わりになってくれて有難う」。
どの青年が命を落としてもおかしくなかった戦中。
粕谷さんの19年間の半生をたどると、彼のような人たちがつないでくれた現代の日本と平和の重みに気付くことができる。
※この記事は西日本新聞とYahoo!ニュースの連携企画記事です。
太平洋戦争末期に旧日本軍が投入した戦闘機「紫電改」を巡る逸話について2回の連載で迫ります。
 
※日本人が戦ったのは大東亜戦争アメリカ戦! 太平洋戦争と記し英霊を裏切るな!   
  (2)
「記事抜粋」

昨年から大分県竹田市の山中で、ガラスや鉄の破片が相次いで発見されている。
その数、約60点。
太平洋戦争末期に旧日本軍が投入した戦闘機 ※大東亜戦争アメリ戦と記せ!
  「紫電改」の残骸とみられる。戦況打開への一筋の光として、日本に続々と襲来する米軍機に立ち向かった当時の新鋭機。

  【画像】「垂直背面攻撃」のイラスト

発見現場の上空では今から74年前、紫電改に乗った19歳の少年航空兵、粕谷欣三さんが米軍のB29爆撃機に体当たりをしたという逸話が残っており、今回発見されたのはその機体の一部の可能性が高い。
粕谷さんの紫電改は当時、どんな戦いを繰り広げたのか。
逸話の基となったとみられる目撃者の証言に加え、日米双方の関係資料を探ってみると、伝承とは異なる戦争の実相が浮かび上がってきた。
1945年5月5日。
その日の竹田市上空は晴れ渡っていた。
撃墜されたB29の機長だったワトキンズ氏(捕虜になった後、帰国)の証言によると、午前8時ごろ、福岡県の飛行場を爆撃。
帰路に就こうとしていた頃、エンジンが被弾したという。
攻撃したのは紫電改だった。
旧日本海軍の資料では、紫電改は午前7時26分、長崎県の大村航空基地を飛び立っていた。
同8時5分、紫電改は大分と福岡県の久留米間の上空、高度6000メートル付近で10機のB29をとらえると、直ちに攻撃に移った。
B29は各機に10人ほどの乗組員が搭乗し、近づく敵機に機銃を浴びせる
  「空の要塞」。
八方から弾を飛ばす様は、旧日本軍パイロットの目に
  「ハリネズミ」のように映ったという。
全長は30メートルで、1人乗りの紫電改の3倍以上の大きさ。
エースとうたわれたパイロットでも、次々と機銃を撃ち込んでも火を吹かない巨体にてこずった。
強固な火力と防御力に対抗するため、紫電改に乗り込んだ旧日本海軍の
  「343航空隊」が採用したのが、
  「垂直背面攻撃」だった。
上空で機体の上下を反転させると、ほぼ垂直に突進し、擦れ違いざまにB29の鼻先にあるコクピットやエンジンに機銃をたたき込む―。
高度な飛行技術と精神力が必要な命懸けの戦法だった。
粕谷さんも343航空隊の一員だった。
4機で編隊を組んで飛び、2機ずつに分かれて攻撃をしていた紫電改。
この日も2機1組で垂直背面攻撃を敢行した。
爆撃を終えて帰投する米軍機を奇襲するのが当時の戦略であり、この日の最初の機銃は気付かれぬうちに撃ち込んだとみられる。
  機体が空中分解を起こし、そのまま山中に墜落
  B29の元機長ワトキンズ氏の証言には「すれ違った」
前略
紫電改の落下地点は明確に伝えられてこなかったが、当時の目撃証言を基に、戦争捕虜の調査研究をしている民間団体
  「POW研究会」(東京)のメンバーや住民らが2018年春から現地を捜索。
機体の旋回性能を上げる両翼の
  「空戦フラップ」の一部で、旧日本海軍のいかりの文様が入った部品や、フロントガラスと思われる親指大のガラス片の塊など約60点が発見された。
その一部は現地にある粕谷さんの
  「鎮魂碑」の前に展示されている。
※この記事は西日本新聞とYahoo!ニュースの連携企画記事です。
太平洋戦争末期に旧日本軍が投入した戦闘機
  「紫電改」を巡る逸話について2回の連載で迫ります。
大東亜戦争は端から負けいた、日本人なら戦争は勝たなければならぬ!
日本男児は誰であれ、国の為、死ぬ覚悟で生きろ!
2019・8・14 山口一臣/Yahoo!ニュース 特集編集部 亀井よ、お主は政治家として一命を賭して日本に奉したのか?
「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験
「記事抜粋」
  「川で泳ぐと、たくさんの人の骨が沈んでいるんです。悲惨ですよ」。
広島県で終戦を迎えた元衆議院議員の亀井静香氏(82)は少年時代の記憶を語る。
終戦から74年。
不戦の誓いを立てた日本では、戦争を知る人たちが次々と鬼籍に入り、戦争の記憶は風化しつつある。
現職の国会議員もほとんどが戦後世代。
保守系政治家としてこの国の戦後政治を見てきた亀井氏に、自身の戦争体験について聞いた。
  ピカッと光った後に地響き
亀井静香氏は1936(昭和11)年に広島県山内北村(やまのうちきたそん、現・庄原市)で生まれた。
県庁のある広島市から北東に80キロほど離れた山間の村。
父は村の助役、4人きょうだいの末っ子で、姉2人、兄1人がいた。
広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日午前8時15分。
当時8歳だった亀井氏は今も鮮明に覚えている。 
※今はシナが核弾頭で日本国を狙っているぞ! 満足なのか?  
  ――その瞬間は、どこで何をしていたのですか?
  ――当時、「原爆」という言葉は?
  救援活動で被爆した姉
  お国のために死ぬのが当たり前 
※今でも覚悟が必要!
  川に沈む人骨
  とにかく戦争はやっちゃいかん 
※シナから侵略されても、日本人が抵抗せず国が亡ぶのを座視するのか?
つづく
 
※亀井よ、お主はもう老い過ぎた一介の老人、死ぬのを待つ身、無責任な事を喋るな! 
税金で生涯飯を食う人間は日本国を守る方法論を語り尽くし迎えを待ってろ!
悪質な反日左翼弁護士の入れ知恵か? 
2019・8・13 文・毎日新聞記者・栗原俊雄/写真・豊里友行、塩田亮吾/編集 Yahoo!ニュース 特集編集部 毎日新聞が煽っているのか?
南の島で家族奪われ苦しみ今も――南洋戦を生き抜いた人たちの国に問う闘い 
「記事抜粋」
リゾート地として日本人らに人気が高いサイパンやパラオなどの南洋諸島。
これら常夏の島々は、明治期以降、沖縄県などから多くの人が移民政策のもとで移り住んだ。
戦前、日本の委任統治領だった時期もあるが、第2次世界大戦時、戦局の悪化で米軍に襲われた。
生き残った人たちも家族や家を失った。
その戦争被害者が国に補償と謝罪を求める訴訟を起こしている。 
※朝鮮人の真似をするな! 日本人? 終戦後、引き上げればよかったろうに!
原告らの多くは80歳以上。
東京空襲など、これまで続いてきた戦後補償裁判で最後の訴訟とみられている。
南洋戦を生き抜いた人たちの闘いを追った。
  常夏の島で戦争に巻き込まれた沖縄出身者たち
  開戦、移民たちの苦難
  戦後・沖縄での日々
  軍人・軍属は補償60兆円、民間人はゼロ円の差別
  宙に浮いた戦争被害
  戦争被害者に立法による救済を
前略
瑞慶山さんも言う。
  「PTSDのように、戦争体験者の被害は日本国憲法下の現代まで続いている。それを明治憲法下の理屈、国家無答責で退けるのは、亡霊のような判決。原告たちの年齢からして、おそらくは当事者による最後の戦後補償裁判となる。戦争被害は生命、財産、精神などに対する侵害。踏みにじられた人権を救済するという、司法の役割が問われている」
 
※世界に移民した日本人の大方は思いがけなく苦労をしたが、大方は成功を収めている。
現地に残ったなら、日本国を当てにせず、己で道を切り拓け!
GHQ占領下、臨時政府を担った赤い役が何を仕出かしたのか?
日本人は今からが、日本国の未来を決める戦いが始まる!
2019・8・13 (15ページ) 石井 光太 現代ビジネス
餓死、物乞い、スリ…戦争が生み出した「浮浪児」その厳しすぎる生活 
「記事内容」
  本当の戦争のはじまり
戦争の犠牲となるのは、いつもか弱き者だ。
敗戦後、日本には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人にのぼったといわれている。
このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった
  「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されている(「朝日年鑑」1947年)。

  「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?

私は10年来、元浮浪児たちに会い、その体験を記録するという取材を進めてきた。
2014年には『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)というノンフィクションに、それらの成果をまとめた。
その経験から言えば、実態は3万5千人以上に上るだろう。
後に述べるように、浮浪児には戦災孤児以外からなった者もおり、それを合わせると膨大な数に上ったことは想像に難くないからだ。
元浮浪児の一人は、私にこんな言葉を残した。
  「日本の終戦記念日は昭和20年8月15日なんだよ。だけど、そこから先が、浮浪児にとって本当の戦争のはじまりだった。生き延びるための戦争だ。そのことを知ってほしくて、君に初めて浮浪児だった時のことを語るんだ」
これから述べるのは、そうして語られた浮浪児たちの証言にもとづいた歴史だ。
  「仲間の死体は自分たちで片づけていた」
  上野と闇市の関係
  盗みが見つかって撃ち殺された子も…
  路上で手を差し伸べた大人たち
  記憶しておかなければならないこと
こうした浮浪児たちが、上野でどのように死を潜り抜けて生き、70数年の人生を駆け抜けていったのか。
詳しいことは、拙著『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』をお読みいただければと思う。
ただ一つ書き記しておきたいのは、同じ路上の住民だけでなく、一般市民も浮浪児の救済に立ち上がったということだ。
ある人は、上野駅で出会った浮浪児たちを放っておくことができず、自宅に次々と連れ帰り、私財を投じて育て上げた。
こうしたところが、数年後には今の児童養護施設となっていく。
現在ある児童養護施設の中には、そうやってできたところも少なくない。
終戦から74年。
1945年8月15日は、日本軍の兵士にとっては戦争の終わりだったかもしれない。
だが、親を失い、路上に放り出された浮浪児たちにとっては、長い長い苦しみの人生のはじまりだった。
そのことを、私たちは記憶しておかなければならないだろう。
 
※日本は都会程、田舎は悲惨では無かった! 浮浪児も見かけず平穏に暮していた。
正月は親戚一同が揃い、餅つきをし、ぜんざい、おせちもびたらふく食った。
それより、1945年・昭和20年8月15日から、主権を回復した1951年・昭和51年9月8日(サンフランシスコ講和条約締結)迄の約6年間、GHQに媚びた真っ赤な三流日本人(役人)が管理した日本の臨時政府で何が起きていたのか? 資料が無いとされているが、ジャーナリストと自称する日本人は実態を暴いて欲しいものだ! 朝鮮人が何を仕出かしたのか? 
日本人は知る権利かがる。
ノモンハン事件・防空壕から機密文書発見!
2019・8・12 産経新聞
「『ノモンハン』血ノ教訓」 大阪・難波宮跡から旧陸軍機密文書見つかる 
「記事内容」
飛鳥~奈良時代に一時的に都が置かれた難波宮跡(大阪市中央区)の発掘調査現場から、1939(昭和14)年に旧満州(現中国東北部)とモンゴルの国境付近で旧日本・満州国軍とソ連・モンゴル軍が武力衝突した
  「ノモンハン事件」に関する旧日本軍の機密資料が見つかっていたことが11日、分かった。
終戦時に米軍の接収を免れるため焼却処分された燃え残りとみられ、文書には
  「『ノモンハン』血ノ教訓」などの記載もあった。
事件から今年で80年。
戦争遂行に際しノモンハンを教訓に戦略を立てようとした状況が分かる貴重な資料になりそうだ。

  【写真でみる】ノモンハンの戦場に赴く日本兵たち

発掘調査は難波宮の遺構がある国立病院機構大阪医療センターの建て替え工事に伴い、大阪文化財研究所(現大阪市文化財協会)が平成28~29年に実施。
同所には戦前、陸軍歩兵第三十七連隊の本部があり、戦時中に同連隊が使っていた防空壕(ぼうくうごう)も十数基発見された。
防空壕は深さ1~2メートルほど。
天井や壁などに張られた板が一部残っており、中から10丁以上の機関銃や小銃のほか、焼け焦げた冊子や文書などが見つかった。
発掘後に調べたところ、焼け残った資料は冊子15冊分で、ノモンハン事件の戦法や考察などが記載されていた。
焼け焦げて判読は困難なものが多いが、一部に
  「『ソ』軍戦法ノ特色ヲ考察」
  「國軍ノ傳統的精神力」などの記述があった。
日ソ両軍の兵器の比較一覧表には
  「大隊砲」
  「迫撃砲」と記され、それぞれの機種や性能を列挙。
マシンガンとみられる
  「MG」の文字の下には
  「日 九二式 ソ マキシム」などと記されていた。
部隊の訓練内容や兵士の軍籍といった個人情報なども確認された。
防衛省防衛研究所(東京)によると、一部文書にはノモンハン事件についてまとめた当時の書籍名が複数記載されていることから、日本軍が大打撃を受けたノモンハン事件を研究することで部隊の強化を図ったとみられるという。
大阪市文化財協会によると、複数の防空壕は土壁が赤く変色していることなどから、終戦時に陸軍が各部隊などに命じ、防空壕内で機密文書の焼却処分を行ったとみられる。
防衛省防衛研究所戦史研究センターの花田智之主任研究官の話
  「日本は1941(昭和16)年にソ連と日ソ中立条約を結んでおり、ソ連との中立関係を意識して大戦に突入していった。今回の資料では、その一方で対ソ連を意識し、精強部隊を作るためにノモンハン事件を教訓にしていたことが分かり、興味深い」
 
※防空壕焼き討ちはGHQによる米軍の戦争犯罪隠蔽工作の一例であるが、実行したのは誰か? 米軍に非ず!
大東亜戦争・日本人必見動画!
2019・8・10
【討論】大東亜戦争の真実[桜R1/8/10]  
「放送内容」
  ◆大東亜戦争の真実
パネリスト:
 鈴木荘一(歴史家)  髙山正之(コラムニスト)  長浜浩明(作家・古代史研究家)  林千勝(戦史研究家)
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)   司会:水島総
  参考
西安事件
 
※多くの投稿あり!
馬渕さん、あなたは何時まで得体の知れない嘘つき安倍総理を支持し続けるのか? いい加減、安倍晋三の正体を見抜けよ! 真面目な日本人をミスリードするな!

国際法を犯した米軍 日本は東京国際軍事裁判の無効を提起せよ!
広島長崎の原爆実験と日本全土の無差別焼夷弾投下爆撃!
2019・8・9 長崎新聞  写真あり!
「きのこ雲」後方 串木野空襲の煙 長総大・大矢名誉教授ら特定 「終戦直前まで全土に空襲」
「記事内容」
米軍機が長崎原爆の投下直後に撮影した
  「きのこ雲」の映像に、米軍が原爆投下の約1時間前に鹿児島西部の旧串木野町(現いちき串木野市)を空襲した際に発生した黒煙が、写り込んでいることが分かった。
長崎総合科学大の大矢正人名誉教授らが特定した。
大矢氏は
  「終戦直前まで日本全土に空襲が広がっていた」と話している。
大矢氏らは2014年、米軍が長崎原爆投下直後に上空約9キロから
  「きのこ雲」を撮影した約3分間の映像を米スタンフォード大のフーバー研究所から入手。
映像を活用し、きのこ雲を撮影した米爆撃機B29の飛行ルートを割り出した。
大矢氏らは研究過程で、きのこ雲の右後方に写り込んでいる小さな黒煙に着目した。
当初は鹿児島・桜島の噴煙と推測したが、当時の気象記録では1945年の噴火は確認できなかった。
大矢氏と長総大の学生チームは、きのこ雲後方に映る陸地の海岸線や島の形状を、米グーグルの衛星写真を利用したサービス
  「グーグルアース」のデータと照合。
黒煙の発生場所は、長崎から直線距離で約110キロ南東の旧串木野町付近と突き止めた。
大矢氏らは串木野の記録を調査。
  「串木野驛(えき)史」によると、45年8月9日午前10時8分以降、米軍機計39機が串木野に来襲し、機銃掃射や焼夷(しょうい)弾で攻撃していた。
※当時、串木野に軍の施設が存在したのか?
入手した米軍の報告書にも、同日午前10時5分から10分間、串木野を空襲し、米軍機パイロットが空襲後に約1・8キロ上空まで立ち上る煙を確認したことが記されていた。
大矢氏らがグーグルアースを用いて映像を分析した結果、串木野空襲の黒煙は、原爆投下時刻の午前11時過ぎに約3・4キロ上空まで達していたと推定された。
これらの調査結果を総合的に判断し、きのこ雲後方の黒煙は串木野空襲により発生したものと特定した。
大矢氏によると、連合軍は日本が降伏しなかった場合、11月に九州南部から上陸する作戦を計画しており、同地域沿岸部の制圧が必要だったため、作戦前に串木野も空襲したとみられるという。
大矢氏は
  「全国各地の空襲体験と原爆被害を関連づけて、平和の大切さを伝えていく視点が今後は重要になる」と話している。
 
※「平和」は何時の時代も必要で尊いが、常に相手が存在してこそ「平和」の尊さと重要性が求められる。
平和と争い、戦争は隣りあわせ、「平和」を唱え過ぎると空しくならないか? 日本人! 
平和を唱える前に先ず、シナの脅威に備えろ、日本人! 
インパール作戦・シンガポール作戦他 日本人必見動画!
2019・8・7 得体の知れぬ嘘つき安倍総理と政府、愛知県は戦後政治をやるな!
 
「放送内容」
  キャスター:髙山正之・佐波優子
 ■ ニュースPick Up
 ■ 東京裁判史観、未だ健在
インパール作戦他 産経新聞vs根性が腐った朝日新聞 ※高山正之が両新聞を読み比べ批評!
■ 全国各地で弔う~日露戦争下の遺骨帰還の報道
日本人は世界に届けと核廃絶、反戦平和を口にする(無策で無謀)
無防備のまま、後世に国を託すのか?
日本人の願いが朝鮮人とシナ人、ロシア人に届くのか?
2019・8・6 産経新聞
遺品が物語る「あの日」広島原爆資料館改装 実物展示に重点
「記事内容」
原爆犠牲者の遺品など2万点を所蔵・展示する広島市の原爆資料館は今年4月、約30年ぶりに本館を改装し、写真や遺品といった実物資料に重点を置く展示内容に一新した。
被爆者の平均年齢が82歳を超える中、いかに
  「あの日」と
  「今」をつなぎ、その実相を伝えるか。
広島への原爆投下から6日で74年。
記憶の継承と発信を担う資料館の取り組みを探った。(有年由貴子)
血がにじむ子供服、黒く焼け焦げた弁当箱、爆風でゆがんだ鉄骨のはり-。
本館に入るとまず目に飛び込んでくるのが、
  「被爆の実相」のゾーンだ。
改装前は原爆投下の経緯や復興を記した説明展示後に配置していたが、
  「限られた滞在時間の中で十分に見てもらいたい」と前半部分に持ってきた。
犠牲者が当日身につけていた衣服や被害を受けた建造物などの資料をまとめて配置。
やけどを負った被爆者や焼け跡に横たわる遺体などの写真も並び、説明は最小限にとどめた。
背景には、戦後世代が大半を占める中で、被爆の実相がイメージしにくくなっていることがある。
説明文を読み始めると、全体を俯瞰して想像力を働かせにくくなる。
そのため、あの日の広島に自分自身がいるかのように感じられる構成に変更した。
被爆者の遺品を展示するコーナーでは、従来の遺品と説明文だけの展示から、持ち主の遺影や最期の様子、家族の思いを記した説明文を添えることで、遺品にストーリーを持たせ、犠牲者の人生を感じ取ってもらう展示に改めた。
見学に来ていた東京都世田谷区の依田真理子さん(44)は
  「一人一人が生きていたということ、それぞれの家族の思いが伝わってきた」と話す。
資料館の大規模改装は、昭和30年の開館以後、今回で3度目。
15年をかけ計25回にわたる議論を重ねた結果、実物の展示による客観性の担保を重視することになり、写真資料は173点と改装前より61点増えた。
  「原爆の被害はやけどや爆風だけではない」との理由から、昭和48年に設置され資料館の象徴的な存在だった
  「被爆再現人形」は撤去された。
設置当初、被爆者から
  「現実と違う」と多数の意見が寄せられていたという。
高齢化で事実を知る被爆者も少なくなっており、
  「証言も聞けなくなりつつある時代だからこそ、作り物ではなく実物展示にこだわった」と加藤秀一副館長は説明する。
資料館の展示の歩みは、記憶の風化との闘いの歴史でもある。
加藤副館長は
  「広島の14万人、長崎の7万4千人という被爆直後の犠牲者の数字からは、死者や家族の苦しみ、悲しみ、残酷さは浮かばない」と強調し、こう語る。
  「ここでしかみられない『被爆の実相』から、一人一人の人間の苦しみを感じ取ってほしい」
  ■若い世代へ、模索続く
前略
今年4月に地元の人々と戦争の関わりを紹介する展示室を改装し、戦争経験者の証言を展示資料に添えたり、特攻隊員を見送った元女学生の証言映像を上映したりした。
担当者は
  「ただ戦争を解説するだけでなく、身近に感じてもらえるような展示にした」と話している。
 
※戦後の日本政府は復興後、銭を手にした政官は日本人を愚民化し、財界を補助金漬けにして仲間に引き込み、日本人不在の政官財による癒着談合利権政治を続け、国家そのものを破壊し続けている。
日本国が今、どうなっているのか知っているのか? 日本人!
いい加減、目を覚ませ、日本人! 
インディアンとアボリジニの大虐殺を実行した米豪(白)人!
日本兵は余程、酷い仕打ちを受けていたのだろう!
2019・8・5 カウラ共同
豪カウラ事件75年、照明弾再現 日本兵捕虜脱走 
「記事内容」
太平洋戦争中の1944年8月、オーストラリア東部カウラの捕虜収容所から日本兵が集団脱走を図った
  「カウラ事件」は5日で発生から75年。
収容所跡地では発生時刻の午前2時(日本時間同1時)ごろ、日本兵の脱走を知ったオーストラリア軍が周囲に異変を知らせるために打ち上げた照明弾を再現する行事が行われた。
凍える冬の夜空に照明弾のピンクの光が輝き、集まったカウラ市民や日本側の関係者が神妙な様子で当時に思いをはせた。
死亡した兵士らのために読経もささげられた。
事件はラッパを合図に日本兵約千人が脱走を試み、オーストラリア兵の銃撃や自殺により231人が死亡。
 
※太平洋戦争はGHQのプロパガンダであり大嘘、大東亜戦争対米戦! 何時まで騙された振りをするのだ、日本人!
帝国陸軍の名機・紫電改!
2019・7・26 (1/2ページ) 月刊PANZER編集部  乗り物ニュース
旧軍戦闘機「紫電改」の「改」のワケ 飛行艇メーカー起死回生の陸上機、その一部始終 
「記事内容」
  川西航空機、起死回生の陸上機開発
2019年6月9日、旧日本海軍戦闘機「紫電改」の実物大模型が、兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場資料館敷地内にて公開されました。

  【写真】実物大で再現された鶉野飛行場資料館の「紫電改」を上から横から

太平洋戦争中、日本は様々な飛行機を作り、なかでも1万機以上造られた傑作機
  「零戦」、正式名称
  「A6M 零式艦上戦闘機」は広く知られています。
一方わずか400機程度しか生産されませんでしたが、アメリカのスミソニアン博物館にて
  「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」と紹介され、同国で高い評価を得ているのが、上述の戦闘機
  「紫電改」です。
つづく
  危険だった「長い足」
  川西航空機特製の自動空戦フラップの威力も空し
前略
三菱は傑作すぎた
  「零戦」の後継となる「烈風」の開発に失敗します。
一方で川西航空機は、零戦とは対照的ながら時局に合致した強力なエンジンと防弾装備、20mm機関砲4門の強武装、短い航続距離という戦闘機を生み出しました。
零戦の成功体験にとらわれない別畑の
  「飛行艇メーカー」だからこそ造れた戦闘機だったのかも知れません。
大日本帝国を悪者にしたい朝日新聞と反日左翼と戦後の日本政府!
2019・7・15 朝日新聞
新宿に謎の人骨100体 731部隊との関連なお調査 
「記事内容」
30年前の1989年7月22日、東京都新宿区の厚生省(当時)戸山研究庁舎建設現場で多数の人骨が見つかった。
細菌戦を研究した旧陸軍の731部隊と関係が深い防疫研究室があった場所だが、関連は不明なままだ。
真相解明を求める市民団体は発見30年に合わせ、展示会や関係施設跡をめぐるフィールドワークを開く。

  【写真】多数の人骨が見つかった旧厚生省の研究施設建設現場=1989年7月25日、東京都新宿区戸山1丁目、朝日新聞社ヘリから

区が鑑定を頼んだ専門家は100体以上のアジア人の骨と推定。
数十年~100年、土の中にあったと判断した。
大人の男性が多く、生前に刺したり切ったりされた跡や、死後に銃弾を受けたと考えられる骨もあったという。
厚生労働省は防疫研究室が属した陸軍軍医学校の関係者らに問い合わせたが、人骨の由来は分からず、発見場所近くに設けた納骨施設に安置している。
発見現場となった一帯には、終戦まで軍医学校があった。
731部隊は戦時中、生物・化学兵器開発のため中国人らに人体実験をしたとされる。 
※大嘘! 確か河野洋平が関わったシナの利権だと記憶しているのだが・・・
発見当時区議だった川村一之さん(67)は、731部隊の実験材料にされた人の遺骨が含まれている可能性があると考え、区や国に遺骨の保存と詳しい調査を働きかけてきた。
研究者や教員らと作った
  「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」の代表を務め、調査を続けている。
  「究明する会」は、発見から30年になるのに合わせて、19~21日、現場近くの全国障害者総合福祉センター戸山サンライズで記念行事
  「人骨は訴える」を催す。
解説パネルや関連資料など約50点を展示し、21日午後2時から川村さんが30年かけて調べてきたことを講演する。
  「遺骨の身元確認につながる動きを作り出したい」という。
20、21日午前10時から周辺の軍関係施設跡などを訪ねるフィールドワークも。
参加費500~1千円。
詳細は会のホームページ(http://jinkotsu731.web.fc2.com)。(佐藤純)
大日本帝国の陸軍武官(スパイ)!
2019・7・9 チャンネルくらら 日本人必見動画!
日本を代表するスパイマスター小野寺信 日本人だけが知らないインテリジェンス 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】
「放送内容」
ナシ
 ・ロシア参戦の時期まで入手していた!
 
※多くの投稿あり
決して、捨て駒に非ず!
2019・7・8 神戸新聞社/Yahoo!ニュース 特集編集部
消えゆく「陸軍中野学校」の跡と記憶 「結局は駒」と卒業生は語った
「記事抜粋」
21階建ての複合ビル
  「中野セントラルパークサウス」は、東京のJR中野駅を見下ろすように立っている。
北隣の親水公園では家族連れが遊び、西側には私立大学のビル型キャンパスが並ぶ。
タワーマンションや中野区役所庁舎の移転なども計画され、駅北口周辺は、変化が著しい。
昔ながらの街並みの雰囲気が薄れゆくなか、戦時中、その一角に存在した
  「陸軍中野学校」の記憶もまた、消えかかっている。
日本軍制史上唯一とされる秘密戦要員の養成機関。
そこに所属し、戦後を生き抜いた96歳の思いとは――。 
※今現在、中野学校を引き継がなくてはならないのが、外務省だが、今の外務官僚始め役人にその気概は無く、丁稚の御用聞き程度でしかない。
  突然の面接 「長机の上に何があった?」
  戦時中に「死ぬな、生き延びろ」の教え
  「最後の日本兵」も中野学校出
  “正史”が語る中野学校
  虚仮の半生 「悔やまれます」 
※悔やむ事は無かろうに、誰もがなれなかった中野学校の生徒、誇りを持ち天寿を真っとしてください!
  96歳の井登さん「自分の意志で生き延びるなんて……」 
※日本国の為、生き延びた使命を果たして欲しい、そして、靖国に眠る戦友を泣かしてはいけない!
中野学校を出た後、井登さんは日本が統治していた台湾に渡った。
先住民族の
  「高砂族」に遊撃戦を指導し、米軍などの上陸に備えていたが、戦闘を経験することなく生き延びた。
学校の同期生には、フィリピンで斬り込み隊に加わったり、沖縄戦の特攻部隊
  「義烈空挺隊」に組み込まれたりし、そして戦死した者もいる。
そうした行為もゲリラ戦の指揮官養成も、根本には市民も巻き込む
  「一億玉砕」に基づく発想があった。
井登さんはいま、こう言っている。
  「秘密戦士も、任地や命令によって生死が分かれたわけで、結局は正規軍の兵士と同じ。 一つの駒でしかなかったんです。 戦争の大きな流れの中では、人間一人の力はちっぽけで、自分の意思で生き延びるなんてできませんでした」
 
※私はあなたより24歳若いだけだが、今、シナや韓国、北朝鮮が攻めて来れば、この年でも戦う覚悟をしている。
日本人少女の沖縄戦の記憶!
2919・6・23 安里洋輔 琉球新報
「震える少女」は私 米軍撮影の沖縄戦記録映像 81歳の女性が名乗り 
「記事内容」
米兵を前に身を震わせる少女―。
米軍が撮影した沖縄戦の記録映像に収められ、沖縄戦を取り上げた映像作品でもたびたび映し出される少女について、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=が22日までに
  「これは私だ」と名乗り出た。
当時、高嶺村大里(現在の糸満市大里)にいたという浦崎さんは本紙の取材に
  「初めて見るアメリカーの青い目が怖かった」と証言。
終戦以来74年ぶりに米兵と遭遇した場所を訪れ、家族4人を失った過酷な戦争体験を振り返った。
  「初めて見る米兵怖かった」
NPO法人
  「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」で当時、編集にかかわった元琉球大学非常勤講師の山内榮さんは
  「映像は沖縄戦の末期に豊見城市以南で撮影されたものとみられる。 証言の内容からも撮影された本人である可能性は非常に高い」と指摘した。
浦崎さんの証言によると、撮影されたのは1945年6月下旬ごろ。
高嶺村大里の農道付近で2人組の米兵にカメラを向けられた。
当時7歳だった浦崎さんは、15歳上の姉と避難先を探している途中だった。
その直前まで母と姉、弟と4人で同村与座(糸満市与座)にあった実家の墓を避難壕代わりに身を隠していた。
だが、米軍の攻撃が激しさを増す中、同様に墓に避難していた隣家が砲弾を受けたのを知り、一家で墓を出た。
母は弟と、浦崎さんは姉と共に、二手に分かれて行動を取ることに。
米兵と遭遇したのは、母と弟の安否を気に掛けて様子を見に戻った姉を待ち、1人でいる時だったという。
当時の心境について浦崎さんは
  「アメリカーを見るのは初めてだった。 青い目が怖くてぶるぶる震えていた」と振り返った。
NHKに出演し在日の崔洋一に論破された若造が大口を叩くな!
沖縄が捨て石だと、知った口を叩くな! 
2019・6・22 古谷経衡 文筆家/著述家
【6・23】を忘れるな!74年目の沖縄慰霊の日 
「記事内容」
今年も6月23日がやってくる。
日本本土で唯一、壮絶な日・米の地上戦を経験した沖縄終戦の日(沖縄慰霊の日)である。
新聞、ラジオは兎も角、本土メディアにおける「6月23日」の取り上げはハッキリ言って鈍いとしか言いようがない。
終戦の日と言えば、日本政府がポツダム宣言受諾を連合国に通知し、それを国民向けに発表した(1945年)8月15日が主(降伏文章調印は9月2日・戦艦ミズーリ号艦上)で、
  「6月23日」の扱いはきわめて低調である。
6月23日は、太平洋戦争における沖縄守備隊「第32軍(牛島満中将)」が玉砕し、沖縄本島での日本軍の組織的抵抗が終わった日を意味する。
戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、今次74年目を迎える
  「6月23日」は繰り返し、繰り返し、私たちが振り返らなければならない節目だ。
  1】「沖縄捨て石論」は是か非か
  2】「台湾」か「沖縄」か
  3】精鋭【第9師団】の不在がアダに
前略
  「単純に我々(日本軍)の長期生存を考えると、第32軍の司令部は首里ではなく国頭等、沖縄北部に置けばゲリラ戦ができた。我々がそうしなかったのは、沖縄中南部が占領され、アメリカ軍に日本本土進攻の拠点となる港湾や飛行場を確保されまいとして奮戦したからである。よって第32軍は、生き残ることを考えたのではなく、1日でも米軍の日本本土進攻を先延ばしにすること。それを優先した」
これを踏まえると、
  「沖縄は本土決戦の捨て石であった」は、やはりYESであり、そしてNOとも言えるのだ。
沖縄慰霊の日、74年目を踏まえて客観的な戦史の振り返りがいまこそ必要であろう。
*参考文献『沖縄決戦』(八原博通著、中央公論新社)
 
※「沖縄が捨て石」だと! 馬鹿を言うな、若造!
日本人は陸軍であれ一般人であれ、当時、沖縄に在住した日本人は皆、命を賭して戦ったのが大東亜戦争沖縄戦である。
日本人の誇りでもある。
歴史学科を卒業とあるが、日本の歴史学会にどれだけ史実があるのか?
大東亜戦争を中心に前後を調べて記事を書け! 愚か者!
戦後の日本の政治を隠す為封じた大東亜戦争!
大日本帝国と英霊、皇民(日本人と台湾人)を捨てた戦後の日本政府!
2019・6・19 神立 尚紀
たった2日で3000人以上が戦死したマリアナ沖海戦の悲劇 
「記事内容」
グアム、サイパンをはじめとするマリアナ諸島――今はリゾート地となり、連日多くの日本人観光客が訪れる。

  真珠湾攻撃に参加した隊員たちが明かした「本音」

75年前の今日、1944年6月19日に、この島々の沖合で日米の機動部隊が激突した。
マリアナ諸島が奪われれば、日本本土が空襲にさらされることになり、この島々は本土防衛のための最終ラインだったのだ。
この決戦に大敗したのち、日本本土は焦土と化すことになる。
惨敗に終わったこのマリアナ沖海戦をからくも生き延びた搭乗員が、戦後50年を経て絞り出すように口にしたのは、日本の将来を背負うはずだった優秀な若者たちをたった2日で3000人以上も戦死させたことへの怒りだった。
  わずか10分で味方機が全て撃墜された
  戦況を自軍に都合よくとらえた、独善的な作戦
  小学生1人を高校生3人で叩くようなもの
  2日間の空戦中、4隻の空母を渡り歩く
  すばらしい若者たちが次から次へと死んで行く
  屈辱的なスラングへの違和感
戦後、日本は奇跡的な復興を遂げ、そんな戦後の復興すら、いまや歴史上の出来事になりつつある。
だが、街や経済は復興しても、傷つき、あるいは家族を喪った一人一人の心の傷が癒えることはなく、いまだ戦争の記憶を胸に生きている人は、高齢となっても少なからずいる。
蛇足を承知であえて付け加えるなら、政治家が酔った勢いで是非を論じられるほど、
  「戦争」は軽いものではないのだ。
 
※日本人なら戦争を恐れてはならない! 地球上に人類が生き続ける限り、戦争の形が変わるだろうが止むことは無い!
日本人は世界で最も文化程度が高い大和民族、日本人が戦わなければならない戦争は戦うべきである。
大東亜戦争の最終戦である日米決戦の失敗を二度と繰り返してはならない! 
その為にも、日本政府は決して、日本人を欺き騙してはならない!
英霊に感謝・英霊が泣いている!
英霊が残した崇高な願い! 
生きて伝えた任務、受け継いでいるのか戦後の日本人?
2019・6・16 神立 尚紀 現代ビジネス
特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか 
「記事内容」
1942年6月のミッドウェー海戦での敗戦により、日米の形勢が逆転して以降、日本軍の拠点は次々と米軍に奪われいった。
この猛攻をぎりぎりのところでくい止めていたのは、ソロモン諸島に展開する海軍航空部隊の搭乗員たちだった。

  ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白

この劣勢を逆転するため、1943年6月16日に決行され、のちに
  「ルンガ航空戦」と名付けられた総攻撃では、手痛い敗北を喫し、多くの腕のいいベテランパイロットを失う。
この一連の戦いを担った部隊は、のちに編成された特攻専門部隊よりはるかに多くの搭乗員が犠牲となった。
彼らはそのなかで、何を見て、どう戦っていたのか? 
  戦局の転換点となったルンガ沖航空戦
  自ら犠牲になることを進言した戦闘機隊長
  94機の大編隊による総攻撃
  迎え撃つ104機の米軍戦闘機
  皆、泣きながら戦っていた
  〈日本は負ける〉と記されていた隊長の手記
前略
大原亮治さんは、
  「宮野大尉が還ってこないと知ったとき、なんで無理してでも行かなかったのかと、自分が恥ずかしかった。 あんなに苦しい思いをしたことはありません。 出撃していたら、まず八割方は、私もやられていたかと思います。 しかし、それまでもそうであったように、隊長機を守り通せたかも知れない。 最後の出撃について行かれなかったことが、いまでも悔やまれます。 当時私は22歳、それがいま、90いくつになるまで生きてるんですからね。 あのとき出ていたらどうだったかな、生きてたかな、死んでたかな、隊長を守ることができたら、その後、どんな人生を歩まれたのかな……。 隊長が、今日は残れ、と言われたのは、お前は生きてろ、と将来の暗示を与えられたのかなと、いまでも、毎日、隊長の遺影の前で自問自答を繰り返していますよ」
と述懐する。
大原さんは戦後、海上自衛隊を経て航空振興財団で後進の指導にあたったが、ルンガ沖航空戦のあった6月16日には自宅の神棚にその日の航空弁当だった巻寿司を供え、宮野大尉戦死後70年の平成25(2013)年まで、靖国神社に昇殿参拝することを欠かさなかった。 心に深く刻まれた戦争の傷痕は長い年月を経ても癒えることなく、亡き人の面影は生ある限り褪せることはない。
 
※今、戦後を振り返ると、三流日本人(共産主義者=役人)が統治し戦後の日本、私は今更ながらだが、戦後の日本政府(政官財)に騙されている事に気付いている。
日本はエセ民主主義国家!
日本国は日本の国でありながら、小学生時代、主権在民と教わったが、これも大嘘!
戦後の日本政府は日本人の生命財、人権さえ守る気が気薄である。
三流日本人(役人)主導の戦後政治でここまで朽ち果てたか日本人!
戦後の日本人とは比べものにならない戦前の気骨と正義心を持つ日本人!
2019・6・4 (1/2ページ) デイリー新潮編集部 デイリー新潮 2019年6月4日 掲載  名は同じ「均」だが立派な今村均と腐った元外務官僚の田中均の大きな違いこそ、戦前の日本人と戦後の日本人の大きな違いである
マッカーサーも脱帽! ラバウルで愛された日本人将校の「武士道」 
「記事内容」
今村均という陸軍将校の名前を聞いたことがあるだろうか。
太平洋戦争において、司令官として南太平洋戦線で戦った人物である。
南太平洋戦線と言えば、ガダルカナル島での惨敗をはじめ、日本軍の失策が続いた印象があるが、その中で数少ない健闘を見せたのがラバウルの第8方面軍を率いた今村であった。
陸軍研究で知られる政治外交史学家で、現在は国際協力機構(JICA)理事長を務める北岡伸一さんは、パプアニューギニアへの出張の際にラバウルを訪れ、そこで今村の生き方について思いを巡らせたという。
近著『世界地図を読み直す:協力と均衡の地政学』(新潮選書)の中から、今村に関する記述を再構成して紹介しよう。
          ***
2016年に南太平洋島嶼国へ出張した北岡さんは、ソロモン諸島のガダルカナル島を訪れた。
  「私はかつて日米両軍が激しく争ったホニアラ国際空港(日本軍設営当時はルンガ飛行場、米軍支配下ではヘンダーソン飛行場)の管制塔の近くに立ち、一木支隊や川口支隊が攻撃してきた方向を見ることができた。 低い山勝ちの地形で、満足な武器もなく、情報もなく、あのあたりに潜んでいたのかと、暗澹たる気分になった。 また海岸には輸送船の残骸がなお残っており、その近くに慰霊碑があって、『ソロモンにつづくこの海凪ぎわたる かもめとなりて還れ弟』という兵士の姉の悲痛な歌が刻まれていた。 日本側の兵力は総員3万6千人、うち戦死など2万2千人という惨憺たる結果だった。 とくにガダルカナルを悲惨なものとしたのは、補給が途絶し、餓死、病死が続出したことである。 餓島と言われたこともある。 戦死者のうち、事実は戦死5千、餓死・病死1万5千と言われている」 
※帝国海軍の作戦の失敗、いや、帝国海軍上層部の大日本帝国への裏切りである。 帝国海軍の裏切りを隠す為、三流日本人(役人)が主導し統治を開始した戦後日本政府は帝国陸軍悪者説を捏造しシナ侵略説も同時に捏造したのであろう。 
パプアニューギニアのラバウルを訪れた北岡さんは、今村について次のように記している。
  「悲惨な南太平洋戦線の一つの慰めは、今村均の存在である。今村は、開戦とともに、第16軍司令官としてジャワ作戦を指導して成功を収め、ジャワにおいては、スカルノやハッタなどの独立運動家を釈放し、オランダ人に対してもインドネシア人に対しても寛大な政策を敷いた。 東京から強圧的な政策をとるよう指示があったときも、これに抵抗している」
有能な軍人であった今村は、統治者としてもその寛大な施政で現地の人々に敬愛された。
その後、第8方面軍の司令官に任ぜられ、ラバウルに着任する。
  「すでに退勢は覆い難かったが、今村はただちにガダルカナルの将兵の救出に取り組み、餓死寸前だった1万名を救出することに成功した。 ほとんど奇跡であった。 また今村は、ラバウルにおける弱点は食糧補給にあることをただちに理解し、食糧自給の方法を研究させ、農地を切り開き、耕作させた。 また地下要塞を作り、兵士の居住空間のみならず、病院、兵器や弾薬を製造する工廠、それに小型の艦船を収容する場所まで備えさせた。 米軍は、ラバウルを攻撃するのはリスクが大きいと考え、結局、ラバウルを回避して、進軍を続けたのである」
しかし、北岡さんが評価するのは、むしろ今村の敗戦後の生き方だという。
  「敗戦後、オーストラリアは今村を死刑にしようとしたが、理由が見つからず、かつ、住民も今村を慕って、これに反対した。 結局、1950年、禁錮10年とされ(ジャワ時代に関するオランダ軍による裁判では無罪とされた)、巣鴨プリズンで服役することになったが、今村は部下が南方の劣悪な環境で苦しんでいるときに自分だけ東京で収監されるのは耐えられないとして、南方で服役したいとマッカーサーに直訴した。 マッカーサーは、初めて武士道精神の持ち主に会ったと、これを激賞し、ただちに今村をパプアニューギニアのマヌス島の監獄に送った。 今村はこの間、部下が冤罪の疑いをかけられたときは進んで弁護し、虐待には抗議し、積極的に司令官としての仕事を果たした。 刑期を終えた今村は、終生、世にでることなく、逼塞して年金生活を送った。 そして、2冊の充実した回想録を残した(『私記・一軍人六十年の哀歓』正続)。 私が軍の研究を始めたころ読んで感銘を受けた本である」
南太平洋で今村の足跡を辿った北岡さんは、国際協力への決意を新たにしたという。
  「こうした島々で、JICAは政府開発援助を続けている。 青年海外協力隊やシニア・ボランティアも活躍している。 全部が成功というわけではないかもしれないが、地域に入り込んで活動し、住民の信頼を獲得することに成功している。 戦争で勝ち得なかったものを、今、平和のうちに勝ち取りつつある。 この流れをさらに進めて行かなければならないと思う」
 
※バブルを経験した後、退職した役人と議会から消え失せた馬鹿な輩(村山富市・河野洋平・鳩山由紀夫)の反日言動に嫌気が益すばかりである。
  令和の問題
戦後の日本政府は何故、大東亜戦争の総括をしないのか?
天皇陛下と今を生きる日本人を騙して迄、天皇陛下と英霊、先人、日本国、日本人を裏切るのか? 
林千勝氏が理由を暴露!
2019・5・31
【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝~日米戦争を策謀したのは誰だ!歴史の真実を暴く[桜R1/5/24]  
2019・5・24 チャンネル桜
【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝~日米戦争を策謀したのは誰だ!歴史の真実を暴く[桜R1/5/24]  (2)
「放送内容」
司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
  ゲスト:林千勝(戦史研究家)
  【内容】
 ①日米戦争を策謀したのは誰だ!戦争の黒幕「国際金融資本」とは?
 ②真子の目覚める朗読コーナー
  「クレムリンへの手紙」  ソルジェニーツィン【著】・江川卓【訳】
 
※大日本帝国に裏切り者がいた! 
  (2)
「放送内容」

  司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
  ゲスト:林千勝(戦史研究家)
 【内容】
  ①日米戦争を策謀したのは誰だ!歴史の真実を暴く
  ②真子の目覚める朗読コーナー
   「クレムリンへの手紙」  ソルジェニーツィン【著】・江川卓【訳】
 
※戦後の日本政府はトランプ大統領の政敵である世界統一派(真っ赤なGHQ=国際金融資本=共産主義者)の下僕と成り下がり、日本を瓦解へと導いている。
そして、今、得体の知れぬ嘘つき安倍総理は日本瓦解の総仕上げをしている真っ最中である。
ビキニ環礁で撃沈された戦艦長門・アメリカ人の根性の汚ささえ感じる!
2019・5・21 (1/2ページ) 月刊PANZER編集部 乗り物ニュース
世界のビッグ7、戦艦「長門」の一部始終 旧海軍の象徴がビキニ環礁に沈むまで 
「記事抜粋」
  日本海軍の象徴、「長門」
いまでこそ、
  「20世紀における日本の有名な戦艦は何?」と聞けば多くの人が
  「大和」もしくは
  「武蔵」と答えるでしょう。
しかし、太平洋戦争当時は、そうではありませんでした。
  「大和」も
  「武蔵」も厳しい情報統制のなかで建造され、一般の人びとには全くといっていいほど知られていなかったのです。
それでは当時の人たちにとって、一番なじみ深い
  「日本海軍の象徴」といえる戦艦は何だったのかといえば、それは
  「長門」でした。

  【写真】終戦後に撮影された「長門」のブリッジ

  「長門」が完成したのは、1920(大正9)年のことです。
完成当時は世界最大の戦艦で、主砲も最大クラスの41cm連装砲(対外的には16インチ、40.6cm)、速力も最高26ノット=48.152km/h(同じく23ノット=42.596km/h)と、その前に建造された伊勢型(36cm連装砲、新造時23ノット)から見ても驚くほどの高スペックを持った戦艦となりました。
これはイギリスの造船技術を学び、金剛型戦艦の2番艦から4番艦を国内で完成させたことにより(1番艦「金剛」のみイギリスで建造)、向上した日本の技術を詰め込んだ結果でした。
長門型2番艦の
  「陸奥」も同等のスペックを持った戦艦となりました。
当時は大艦巨砲主義が最盛期を迎えていた時代です。
高まる列強の戦艦建造競争によってどんどん巨大になっていく艦体と主砲口径、その最たるものが長門型戦艦で、本型の登場が世界初の軍縮条約となった
  「ワシントン海軍条約」締結のきっかけになったといわれています。
  「世界7大戦艦」のひとつに数えられた「長門」
  戦後にたどった数奇な運命
前略
アメリカに接収された
  「長門」は、さらに数奇な運命をたどることになります。
終戦翌年の3月、アメリカの核実験の標的艦となるため、
  「長門」はマーシャル諸島に向けて出港しました。
目的地のマーシャル諸島ビキニ環礁へ到着すると、アメリカの戦艦
  「ネバダ」や日本の軽巡洋艦「酒匂」などとともに核実験の標的とされました。
2回にわたる大爆発を受け、それでも
  「長門」は沈みませんでした。
これに対し日本では、
  「長門が名艦だった証拠」
  「日本の造艦技術の優秀性の証明」などともてはやされましたが、ほかにも数多くの艦艇が沈むことなく残っていたので、一概にはいえません。
そして、
  「長門」は2度被爆した翌日の夜、誰にも知られることなくひっそりと沈没しました。
爆発の衝撃からゆっくりと浸水が広がっていたものと思われます。
翌朝、関係者が確認すると、すでに海上に
  「長門」の姿はなかったといいます。
  「長門」は現在、海底で静かに眠り続けています。
核実験から65年、いまではこの海域は、沈船が多いことから有名なダイビングスポットとなっており、観光客に人気の場所に様変わりしています。
戦前、
  「ビッグ7」としてもてはやされたほかの大型戦艦もすでになく、海中に没しているとはいえ、
  「ビッグ7」のなかで現在も見ることができるのは、いまやこの
  「長門」だけだといいます。
 ※大東亜戦争に纏わる記事を読む度、何時も思うのだが、大日本帝国・駐米日本大使野村吉三郎全権の奇行である。
野村吉三郎は何故、己の失態を切腹し天皇陛下に詫びなかったのか? GHQ占領下、真珠湾攻撃に纏わる史実が隠蔽されたに違いない。
野村吉三郎は戦後、三菱に天下りしてぬくぬくと余生を送っている。
野村吉三郎と
山本五十六戦後、直ぐに映画化され小学校で生徒全員に見せている。
杉原千畝の嘘は既にバレている。
三流日本人(役人)がGHQに媚びへつらい立ち上げた戦後政府に余程、日本人に知られたくない史実があるに違いない! 
嘘つき安倍総理始め日本政府の戦後政治の姿勢そのものが、大東亜戦争の総括が出来ない理由なのであろう。

  参考・関連記事 
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沈没潜水艦、乗員どう救出? 着底しても数日は生存 海自の備え「潜水艦救難艦」とは
日本は何時になったらGHQの亡霊を気にせず「戦争」「領土」を語れるのか?
丸山議員を悪者にして「戦争」の二文字利用し言論封殺をしてはならない!
2019・5・18 デイリー新潮編集部 2019年5月18日 掲載
ソ連の北方領土不法占拠に暗躍したスパイ 丸山穂高議員の知らない近代史 
「記事抜粋」
北方領土
  「戦争」で取り戻す可能性について、元島民に質問をした丸山穂高衆議院議員への批判が高まっている。
結果、彼は所属の日本維新の会から除名処分を受けることになった。
酒席とはいえ、また
  「疑問形」の発言だったとはいえ、丸山議員が不用意だったことは間違いない。
また、彼の発言の前提には、北方領土が
  「戦争」で取られたものだという考えがあるようにも受け止められるが、これ自体、正確さに欠けると言えるだろう。
戦後のゴタゴタにまぎれてソ連が不法占拠したのは事実であるが、北方領土を失った経緯はそんなシンプルなものではない。
有馬哲夫早稲田大学教授は、最新の文献研究をもとに著書『歴史問題の正解』の中で、この経緯について詳しく述べている。
そこから分かるのは、決して
  「ソ連が隙を狙って侵攻してきた」といった単純な話ではない。
アメリカ大統領の人気取り、ソ連のスパイの暗躍……米ソの身勝手な振る舞いと謀略によって、領土が奪われていった経緯を、同書をもとに見てみよう(以下は基本的に『歴史問題の正解』による) 
※当時、ルーズベルトの周囲はコミンテルンだらけ、日本にもコミンテルンがいた。
  人気取りのためにソ連と共闘
前略
婉曲な言い方だが、スターリンの言う
  「政治的問題」とは対日参戦と引き換えにソ連に渡す利権のことだ。
のちに
  「極東密約」と呼ばれるもので、南樺太の返還、千島列島を引き渡し、満州の利権の取得を斡旋するというものだった。
つまり、参戦の見返りというエサで釣って、巨頭会談に応じさせたのだ。
中略
ソ連はのちに満州に侵攻し、現地のあらゆる日本の工業設備を持ち去っただけでなく、ポツダム宣言に違反して、約60万人の日本の軍民をシベリアに送り、強制労働させた。
しかも、今にいたるまで謝罪も補償もしていない。 
※戦後の日本政府の対ソ、対露外交に問題あり!
  ルーズヴェルトの非道 
※チャーチルとルーズベルトは人種差別主義者、特に日本人差別主義者である。
前略
しかも、ルーズヴェルトは、自国の領土をソ連に与えると約束したのならともかく、日本固有の領土、即ち南樺太と千島列島をソ連に与えると約束している。
 ルーズヴェルトは、ソ連が軍事力でドイツや日本の領土を奪うのを黙認するというレベルにとどまらず、自らはそれらの領土になんの権利もないのに、あたかもあるかのように振舞って、ソ連に与えることを承認したり、約束したりしている。
決して見逃すことができないのは、極東密約のなかでソ連との取引材料とされた東清鉄道、南満州鉄道、大連、旅順の利権は、敗戦国どころか、アメリカにとっては同盟国である中華民国のものだということだ。
アジアの同盟国は、敗戦国と同等だとでも思っているようだ。
ルーズヴェルトのモラルのなさは想像を絶している。 
※日本人差別主義者!
中略
こうしたルーズヴェルトの言動は、決して当時の大国の
  「常識」であったわけではない。
モスクワ会談で極東密約の大枠が決まったあとで、アメリカ国務省はハリマン大使とスターリンの間で話し合われた千島列島全体の引き渡しに問題がないかどうか調査している。
その結果、南千島(北方四島)は、歴史的にも住民の実態からも北海道の一部なので、ソ連への引き渡し対象からは除外すべきだと結論しているのだ。
国務省はそれを勧告書にまとめルーズヴェルトに提出していた。 
※何が起因しているのか分からないが、戦後の日本政府は北方領土然り、竹島、尖閣諸島、沖縄、北海道に無関心である。
つづく
  ソ連スパイの暗躍
それにしても、なぜルーズヴェルトは自国の国務省の勧告書を読まなかったのか。
実はここでソ連の諜報機関が関与していたことが、今日では明らかになっている。
当時、国務省の高官で、会議の文書や資料を用意する事務方のトップとして会議スタッフに入っていたのは、アルジャー・ヒス特殊政治問題局長だった。
このヒスがかかわった会議では、ルーズヴェルトに渡されるべき報告書や勧告書が渡っていなかったり、記録されるべき議論が記録されていなかったりといった問題が多くある。
これはもともとがずさんだったうえに、ヒスが意図的にやった可能性が高い。
のちにわかったのだが、彼はソ連のスパイだったのである。
ヒスについては、一時期までは実際にスパイだったのか疑問視されていたが、90年代から機密文書の発掘でKGBなどの研究が進んだ結果、実際に1930年代から、ソ連のスパイとしてアメリカで活動していたことが判明している。
首脳同士の会議では、事前に議題を整理し、結論をまとめた文書やメモを用意することが、会議の結論を左右することになるのだが、ヤルタ会議ではアメリカ側の作業を担当していたのが、ソ連のスパイだったことになる。
アメリカは戦後処理を決める首脳会談をよりによってソ連のスパイに取り仕切らせてしまったのだ。
そのため、せっかくの国務省の勧告書は意味を持たなかったのである。
歴史はきわめて複雑怪奇であり、問題解決も一筋縄ではいかない。
戦争で取り返す、などといったシンプルな解法は通用しないのだ。
 
※得体の刷れぬ嘘つき安倍総理始め戦後の日本政府は何故、領土交渉に史実を楯にソ連、ロシアと北方領土(南樺太・全千島列島)交渉を開始しなかったのか? 
大いに疑問である。
軽巡洋艦「神通」!
2019・5・11 月刊PANZER編集部 乗りものニュース
軽巡洋艦「神通」の一部始終 旧海軍切り込み担当の誉れ 語り継がれるその壮絶な最期
「記事抜粋」
  海底に眠る「神通」発見される
2019年4月26日(金)、戦艦
  「武蔵」や
  「比叡」など数々の旧日本海軍艦艇を発見してきた故ポール・アレン氏(2018年10月逝去)の沈没船捜索チームが、今度は軽巡洋艦
  「神通(じんつう)」を発見、Facebookで公開しました。
沈没地点は、南太平洋ソロモン諸島中部にあるコロンバンガラ島の北東沖で、水深は900mとのことです。

  【地図】「神通」の眠るソロモン諸島コロンバンガラ島沖とその周辺図

実はこの
  「神通」、常に第一線で戦い続けていたため、太平洋戦争開戦後の写真がほとんどなく、今回の発見によってようやく戦争中の外観の詳細が判明したのです。
そもそも
  「神通」は、通称
  「5500トン型軽巡」(トン数は常備排水量)と呼ばれる川内(せんだい)型軽巡洋艦の3番艦として1920(大正9)年に建造が計画され、神戸において1923(大正12)年12月8日に進水し、1925(大正14)年7月31日に竣工しました。
この間、
  「神通」に先行して横浜で起工していた同型の軽巡
  「那珂(なか)」が、1923年9月1日の関東大震災にて被災、いったん解体したうえで再起工となります。
これにより
  「那珂」の工期が大幅に遅れたことから、
  「神通」が先に進水することになり、その結果、川内型軽巡の2番艦へ繰り上がったのです。
こうして
  「神通」は竣工とともに呉鎮守府籍に入り、日本海軍のいち戦力となったのですが、それから2年後の1927(昭和2)年8月24日に起きた、いわゆる
  「美保関事件」で一躍、その名が世間に知られることとなりました。
  事件事故で3度も変身
  ひたすら戦いの日々
  運命の「コロンバンガラ島沖海戦」
前略
  「神通」が一身に敵弾を集めたことで、日本側の駆逐艦はアメリカ艦隊への攻撃に集中でき、その結果、日本側は「神通」1隻の沈没に対して、アメリカ側は駆逐艦1隻沈没、軽巡3隻大破、駆逐艦2隻大破の損害で、さらに日本側は増援輸送も成功と、作戦と海戦の双方で任務を全うしました。
しかし
  「神通」は最期まで孤軍奮闘したため、最終的に乗員482名(第二水雷戦隊司令部含む)のうち、生存者は30名弱しかおらず、そのほとんどが艦と運命を共にしたのです。
ここまでの勇戦敢闘ぶりに、アメリカの戦史研究家であるサミュエル・モリソン海軍少将は、
  「『神通』こそ太平洋戦争中、もっとも激しく戦った日本軍艦である」と称賛したそうです。 
 
※アメリカ(反トランプ勢力の世界統一派)から称賛されて嬉しいのか? これでいいのか? 日本人!
腑抜けになった戦後の政官! 
2019・5・10 PHP Online 衆知(歴史街道)
遺族に返還されず……処刑された東条英機の遺骨はどこに? 
「記事内容」
 ※本稿は、河合敦著『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』(PHP研究所)より一部を抜粋編集したものです。

平成10年(1998)に公開された伊藤俊也監督の作品『プライド 運命の瞬間(とき)』は、東条英機元首相を描いた映画である。
東条は戦後、太平洋戦争の遂行責任者としてA級戦犯容疑で起訴され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた人物である。
その東条を、この作品では英雄視しているのではないかという批判・反発が巻き起こり、かつて論争にまで発展した。
それが本当かどうかは映画を観て個人が判断すればよいことであろう。
昨今、太平洋戦争をめぐってわが国では、さまざまな立場から激しい論争が展開されてきた。
果たして何が正しいのか、偏することなくできるだけ多くの著作にあたり、自分なりの結論を出してゆくことが大切かと思う。
ただ、過去の怨念やさまざまな言い分もあるだろうが、これからアジア諸国は手を取り合って進むべきだということに関しては異論はないだろう。 
過去も大事だが、未来はもっと大事なのである。
 ※異論は大あり、日本の将来が大事だからこそ、日本が手を携えるのは戦前から日本を裏切り続けているシナと朝鮮を除かなければならない。
除かねば、後世に再び災難が降りかかる。

明治17年(1884)、東条英機は、陸軍の戦略家として有名な東条英教の子として生まれ、陸軍士官学校を出て、父と同じ陸軍畑を歩いてきた。
非常に頭の回転が速く、優秀な仕事ぶりをみせたので
  「カミソリ」とあだ名された。
近衛文麿内閣の陸相として入閣するが、対米開戦をとなえて近衛とぶつかり、内閣を崩壊させた。
その後、自ら内閣を組織した東条は、米英との開戦に踏み切った。 
※大東亜戦争は白人による日本人差別、チャーチルとコミンテルンに操られたルーズメルトが仕掛けた戦争、開戦は止むを得ない判断! 戦後の日本政府にとって不都合な事案が隠されている。
戦時中、国内で諸勢力を弾圧して独裁的な体制を築き上げたが、戦争で敗色が濃くなると、東条に対する不満が噴出、ついに首相を辞職に追い込まれた。
戦後、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に入所していた東条であるが、逮捕されるとき自殺未遂をはかったものの、拘置所に入ってからは起訴を覚悟したらしく、冷静さを取り戻している。
その証拠として、平成9年(1997)に見つかった岸信介元首相の遺品
  「ミカン細工」があげられる。
この細工品は、東条と同じくA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘束された岸が、食事で出された夏ミカンの中身をくり抜き、その厚皮を干してつくった四角い壺である。
その壺の表面に東条の手で大きく、
  「観自在」と墨書されている。
岸の依頼で書いたものだろう。
  「煩悩が消え、すべてを自在に見通すことができる」という意味であり、仏教用語のひとつだ。
起訴を前に、すでに達観の境地だったのかもしれない。
昭和21年(1946)5月3日、東条は起訴され、23年(1948)11月に死刑判決を受け、翌月23日、巣鴨拘置所内で絞首刑に処された。
65歳だった。
遺体は、横浜市西区の久保山火葬場で荼毘にふされたが、遺骨はただちに米軍がいずこかへ持ち去り、ほかのA級戦犯同様、遺族には返還されず、その行方も伝えられなかった。 
※当時、GHQに媚び諂った役人を探し出して事情聴取すれば分かるだろうに・・・ここで指摘して置く、日本は戦後、大東亜戦争の総括さえせず、今に至っている。 
戦後の日本政府は故・東条英機の亡骸を探す気が全く無い! 
得体の知れぬ嘘つき安倍総理と政府、自民党は未だにGHQ(世界統一派)指令下にある。
トランプ大統領の登場は日本が戦後から脱却する絶好のチャンスなのだが、得体の知れぬ嘘つき安倍総理はチャンスを生かす気配すらない。

ところが、『東京新聞』の平成8年(1996)8月10日付の朝刊に、遺骨は太平洋に散骨されたとする記事が載った。
同新聞によれば、証言者は当時の関係者だった国家公務員で、公務員の守秘義務のため、名前を出すことができないとあるが、かなり確実な情報らしい。
記事によれば、昭和23年に刑死したB級戦犯の西沢正夫陸軍大尉の遺族が、遺骨返還の嘆願書を出したが、その回答としてGHQの戦犯仮釈放審査委員長のヘーゲル大佐が、外務省引き揚げ援護局の戦犯問題担当である井上忠男事務次官に、
  「戦犯の遺骨は回収不能である」と語り、大佐の好意として非公式に
  「実は戦犯の遺骨は、政治的な理由から飛行機で太平洋上に散骨した」と伝達してきたという。
そのため、西沢大尉の遺族には
  「米軍規定により戦犯刑死者の遺骨は遺族に返還されない」とだけ伝え、真相は伏せられたとされる。
ではいったい、なぜ東条らの遺骨は海に撒かれたのだろうか。
いうまでもなくそれは、戦犯たちの骨が後の日本人から英雄視され、崇拝の対象となることに、GHQが大きな危惧を抱いたからであろう。
元中日新聞記者の平野素邦氏が東条の遺族から聞いた話によれば、昭和30年(1955)に政府から遺族に宛てて白木の箱(遺骨を入れる箱)が届けられたが、なかには骨も灰もなく空だったという。
実は、骨は海に撒かれてしまったのだが、遺体の灰については、当時のA級戦犯弁護団の一人、三文字正平弁護士が、久保山火葬場の飛田場長に密かに頼み込んで、A級戦犯7人のまじり合った灰をかき集め、熱海市伊豆山の興亜観音堂と愛知県三河湾公園の山頂に立つ
  「殉国七士の墓」に納めたと伝えられる。
河合敦著『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』(PHP研究所)
撃沈された重装甲空母「大鳳」!
2019・5・4 月刊PANZER編集部 乗りものニュース
重装甲空母「大鳳」はなぜ魚雷1発で沈んだ? 「不沈」をうたわれた空母の一部始終 
「記事抜粋」
  脆弱な空母を重装甲化したら…?
空母は航空機を飛ばすのが任務ですが、そのためには航空機用燃料のガソリンやこれに搭載する爆弾なども必要です。
つまり空母は、艦内に大量の
  「危険物」を抱え込んでいるのです。

  【画像】実は部分的だった「大鳳」の装甲甲板

ところが、太平洋戦争以前の空母黎明期、航空機の航続距離は戦艦や巡洋艦の大砲の射程距離よりずっと長いので、空母そのものが最前線に出ることはあまり想定されず、充分な防御装甲は施されないのが普通でした。
攻撃するリーチは長いものの、いざ攻撃を受けると脆弱な存在だったのです。
現代アメリカ海軍の原子力空母は、多数の強力な航空機を運用できる巨大な攻撃力をもっていますが、やはり脆弱であることには変わりなく、護衛艦、潜水艦など多数の艦艇や航空機を配してガッチリガードされています。
ミサイル防衛にも使われるイージス艦は、もともと空母護衛用に造られた艦です。
旧日本海軍においても、飛行甲板に爆弾を1発でも受けると航空機が発着できなくなり、甲板を貫通されると致命傷になりかねない空母の脆弱性は、太平洋戦争の開戦前から認識されていました。
そうしたなか、1939(昭和14)年に策定された
  「第4次海軍軍備充実計画」、通称
  「マル4計画」において、排水量2万7000トン級、防御力を大幅に強化し、飛行甲板は800kg爆弾に耐え、機関室や弾薬庫は巡洋艦の主砲弾に耐える装甲が施された
  「重装甲空母」が計画されました。
これがのちの空母「大鳳(たいほう)」です。
  期待の重装甲空母、しかも美麗!
  期待された一発逆転、魚雷1発であえなく
前略
重装甲をうたわれた
  「大鳳」です。
やや前部が沈下しましたが浸水は抑えられ、左舷注水で傾斜も復元し速力も26ノットを維持しており、1発の魚雷程度では戦闘力は失われないはずでした。
ところが、問題は搭載していた
  「危険物」、ガソリンでした。
被雷の衝撃で航空機用燃料タンクが破損し、ガソリンが漏れ出していたのです。
正確な時間の記録はありませんが、被雷直後にはガソリンが噴出していたとの証言もあります。
漏れたガソリンは、気化して艦内に充満していきます。
防御力強化のため、格納庫が閉鎖構造になっていたのが仇となり、換気ははかどりません。
気化したガソリンを吸入して失神する乗員が続出し、火花を恐れて工具の使用も制限され、ダメージコントロールに手間取るうちに攻撃隊が帰還し始め、着艦作業も同時進行せざるを得なくなります。
やがて14時32分に
  「大鳳」は大爆発を起こします。
艦載機の着艦失敗が、気化したガソリンへの引火のきっかけとも言われていますが、はっきりしたことは分かりません。
爆発が連続して手が付けられず、16時28分に沈没します。
竣工からたった3か月後の、初陣での戦没でした。
一発逆転をかけた海戦で
  「大鳳」は、1発の魚雷で沈んだのです。
それぞれの生き方・洗脳された? 己を正当化したい? 
神は英霊を侮辱する為にお主を生かした訳でない!
2019・5・3 (1/7ページ) 神立 尚紀 現代ビジネス 
歴戦の名パイロットは、なぜ沈黙を破って戦場を語り始めたのか 
「記事内容」
零戦搭乗員として、真珠湾作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防戦など最前線で戦い続け、何度も死地をくぐり抜けてきた原田要さん。
戦後は平和を願い、幼児教育に生涯を捧げてきた。
戦後50年を迎える頃まで、戦時中のことは一切語ることはなかったが、あることがきっかけで、戦場の過酷さ、悲惨さを語り残すことを決意する。
それは、湾岸戦争での、まるでヴァーチャルゲームのような映像と、それに対する若者たちのあまりに軽すぎる反応を見聞きしたことだった。
  みんな本当は死にたくなかった
  3~4倍に膨らんだ偽りの数字が流布している ※戦争を経験していなくても戦場の悲惨さは誰にでも想像できる!
  一触即発の国際事件となった米船舶への誤爆
  「日本は負けた」と思い、目の前が真っ暗に
  敵機と刺し違え、椰子林に突っ込むも
  戦争の話をした日は夜通しうなされていた
  戦争のことでいい思い出なんて一つもない
前略
原田さんは、平成27(2015)年8月、満99歳の誕生日を迎えた。
これは当時、日本海軍の戦闘機搭乗員としての長寿記録でもあった(令和元年5月3日現在の長寿記録は、三上一禧さんの101歳)。
穏やかな人柄もあいまって、かつての戦友や部下たちの間でも、絶大な尊敬を集めていた。
私が接した20年あまりの間に、原田さんが怒りを露わにするのを見たのは、終戦記念日に靖国神社に参拝したさい、テレビ局記者にマイクを向けられ、
  「A級戦犯が合祀されている靖国神社にどんな思いでお参りされるんですか」
と聞かれて、
  「そんなことは関係ない。私は祀られている友達に会いに来たんだ。ここで会おうって約束したんだから」
と憮然としていたのと、ある戦友会で、海軍兵学校出身の、年下の元上官とのやりとりで癇に障ることがあったらしく、
  「なんだい、あいつは。いつまでも士官風を吹かせやがって」 と声を荒げたのと、その2回だけである。
  「靖国神社へ戦友のみたまに会いに行く」ことと、
  「兵から叩き上げたベテラン搭乗員としてのプライド」は、原田さんのなかで
  「平和への思い」と矛盾するものではなかった。
  「若い頃、私は死ぬということが怖くて、お坊さんに教えを乞いに行ったこともあったけど、克服できなかった。 でもいざ、実際にその場に直面すると、案外平静なものでした。 戦争で死ぬような目に何度も遭いながら、この歳まで生きてきて、人の命なんてわからないものだとつくづく思います。 寿命は神様から与えられたもので、自分ではどうにもならないものなんですね。 いまの若い人のなかには、日本がかつてアメリカと戦争をしたことを知らない人も多いと聞きます。 年寄りの目からみると、あの戦争で、多くの犠牲の代償として得た平和が、粗末にされているような気がしてなりません。 歴史を正しく認識して、平和のありがたさを理解しないと、また戦争を起こしてしまう。 軍隊や戦争のことでいい思い出なんて一つもない。 ほんとうは思い出すのもいやだけど、命ある限り、自分たちが体験したことを次の世代に語り伝えることが、われわれの世代に課せられた使命だと思っています。 とはいえ、幼稚園で、小さな子供たちにそのことを教えるのは大変です。 そこで私は、まず物は大事にしなさい、どんな物でもその物の身になって、けっして無駄には使わない、それが自分の命を守ることにつながるんだよ、という話から始めるようにしてきたんです」
  ――原田さんの左腕には、ガダルカナル島上空で負ったすさまじい銃創が残っていた。
そんな実体験に裏打ちされた言葉は、限りなく重い。
その思いは、子供たちにもきっと伝わっていたに違いない。
原田さんを語るのに、メディアによる誇張など一切無用だったのだ。
 
※原田要氏に申し上げる、戦後のメディアを余り信じないで欲しい。
戦争は人間なら誰でも嫌! 日本人の常識でもあろう。
日本男児は由緒ある日本国を守る使命を帯び生を受けている。
戦争は喧嘩に非ず! 決して「敵に後ろを見せ、逃げてはならず!」、この覚悟無しに日本国は守れない、チベットや東トリキスタン、満州、南モンゴルと同じ道を辿り、多くの日本人がシナ人に残虐(猟奇的)に惨殺されるだろう。
日本男児がシナに覚悟さえ示せば、シナは日本に簡単に手出しはしまい。
日本人は今、日本政府の戦後教育により愚民に成り果てているが、戦前の日本男児と根は変わっていないと信じたい。
私の父は満州帰りだが、満州の話をしたのは一度限り、「ション便と糞が用足しの最中に凍る」と笑って話してくれた。
今思えば、ゆっくり時間をかけて、当時の話を聴いておけばと後悔している。
後世に伝える話は思想信条を交えず、当時のありのままを語って欲しいものである!
戦後の日本政府は台湾を捨てた、原田要氏は台湾の現状を確り見て欲しい。
大日本帝国海軍・戦艦「金剛」 英霊に感謝!
令和元年 2019・5・2 (1/2ページ) 月刊PANZER編集部 乗りものニュース 日本人必見記事! 
強みは速さ、戦艦「金剛」の一部始終 30年以上戦い抜いた旧海軍最後の「帰国子女」  
「記事内容」
  時は明治、「ド級」ショックが世界を駆け巡る 
旧日本海軍の戦艦 
※旧も新も無かろうに・・・ 今は海上自衛隊、軍隊に非ず! 早く世界が認める日本国海軍に昇華して欲しいものだ!
  「金剛」は、海戦の主役が「戦艦」から「空母」へ移った太平洋戦争においても、ほかの戦艦に比べ実に多くの場面で運用されたといえるでしょう。
当時すでに古参艦といえる艦齢を重ねており、建造されたのは明治から大正にかけてのイギリスでした。

  【写真】1930年ごろ撮影、第1次改装後の戦艦「金剛」

日本が初めて挑んだ対外戦争、日清戦争で勝利したのが1895(明治28)年のこと。
それから10年後に起きた日露戦争では、世界中が注視するなか、大国ロシアに勝利し、各国の度肝を抜きました。
この勝利の一因となったのが、かの有名な
  「日本海海戦」で、これにより日本は一躍、海軍国として名を馳せるまでに至ったのです。
このとき、日本国内でも戦艦の建造はできるまでになっていました。
実際、日露戦争終結前後に起工された薩摩型戦艦2隻(「薩摩」「安芸」)は、横須賀と呉の両海軍工廠で建造されました。
しかし、この薩摩型戦艦を建造中の1906(明治39)年に、イギリスは
  「ドレッドノート」という革新的な戦艦を就役させ、建造中だった薩摩型戦艦は竣工前に早くも旧式の烙印を押されることになったのです。
この影響により、1907(明治40)年に建造が決まっていた
  「金剛」は、イチから計画やり直しとなります。
当時は、まさに軍艦、特に戦艦の建造ラッシュでした。
イギリスがその大きさも攻撃力もけた違いな戦艦
  「ドレッドノート」を建造すると、その流れに拍車がかかり、
  「『ドレッドノート』と同じくらい凄い」ド級戦艦や
  「『ドレッドノート』を越える能力を持つ」超ド級戦艦が次々と造られるようになっていきます。
日本もその流れに乗って、
  「『金剛』をド級戦艦に!」
  「いや超ド級戦艦に!」と揉めた挙句、計画は変更に変更を重ね、予算が通ったのは計画立案から3年も経った後のことでした。
  イギリス艦「金剛」日本へ
  そのスピードを生かした戦い
  「金剛」最期の戦い
前略
船体は徐々に傾き、魚雷命中からおよそ2時間後、機関が停止、総員退去命令が出されるもすでに遅く、その10分後に
  「金剛」は転覆しました。
被雷から2時間もの時間があったにもかかわらず、損害を軽視したことで避難は遅れ、艦長以下1000人以上の乗組員が、艦と運命を共にしました。
ちなみに
  「金剛」は日本の戦艦で唯一、潜水艦による雷撃で沈んだ艦であるとされています。
これは世界的に見ても珍しく、潜水艦に撃沈された戦艦は
  「金剛」を含めて3隻(残り2隻はイギリス艦)しかいないといいます。
とはいえ、
  「金剛」の最期は、潜水艦による攻撃、というよりは
  「30年以上にわたる第一線での活躍による老朽化」というほうが正しい気がします。
老体に鞭打ちながらも最期まで全力を出して力尽きたのですから、大して見せ場がなかったほかの日本戦艦と比べれば、
  「金剛」は軍艦としての役割をまっとうできた、といえるのではないでしょうか。
 
※大日本帝国が戦った大東亜戦争、 日米戦でアメリカ軍により膨大な日本の船舶が撃沈されているのだが、戦後の日本政府は未だ、撃沈された民間船舶の数を定かにしていない! 
日本は戦後復興を終えた後、日本国内で自民党を軸に政官財が癒着談合で恐ろしい工作が続いている気がしてならない。
これでいいのか? 日本人! 
何時の時代も日本政府はとろい! 日本もイギリスの様な国に成り下がるのか? 
新天皇陛下は日本国の繁栄を願っておられる。
得体の知れぬ嘘つき安倍総理の売国政策は殆どが閣議決定、国会審議も無きに等しく、呆れる程、スピーディー! 
ところが、日米支の三国外交は誠に哀れ! 米支間に蝙蝠の如く飛び回るだけ、決断力が欠けており、本当にとろい!