大東亜戦争&日米戦争は質が全く違う!
和名を名乗る朝鮮人の「政官」に騙され、戦争に招集された大和民族の日本人兵! |
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ソ連の国際法違反=戦争犯罪の犠牲者!
麻場静子さん(91)と高野歌子さん(80)の願いが叶いますように! |
2020・11・7 朝日新聞
女児遺骨「3歳だった妹かも」 姉がDNA鑑定を依頼
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「記事内容」
終戦直後、旧ソ連軍の潜水艦攻撃を受けた旧樺太からの緊急疎開船三船の犠牲者で、北海道小平町で新たに見つかった女児3人の遺骨について、道内に住む姉妹が6日、町にDNA鑑定の依頼書を送付した。
遺骨は町が合同墓に安置している。
鑑定がなされれば三船遭難事件で初のDNA鑑定になる。
【写真】潜水艦攻撃の様子や妹への思いを語る高野歌子さん=北海道斜里町
女児3人の遺骨は、同町の鬼鹿海岸に漂着後、地元住民が火葬し、ひっそり供養してきた。
2年前にこのことがわかり、今年9月末、町が掘り起こして他の犠牲者が眠る合同墓に移した。
3~6歳と言われ、鬼鹿沖で魚雷攻撃を受けて撃沈した泰東丸か、大破しながらも留萌港に避難した第2号新興丸の乗船者と思われる。
DNA鑑定を依頼したのは上砂川町の麻場静子さん(91)と、斜里町の高野歌子さん(80)で、自身の毛髪を添えた。
旧姓は
「瀬川」。
当時、長女の静子さんは16歳、三女の歌子さんは4歳で、姉妹は
「女児の1人は当時3歳だった妹の愛子かもしれない」という。
瀬川家は1945年8月21日朝、旧樺太南部の大泊港から第2号新興丸に乗って小樽港を目指した。
祖母と母、静子さん、歌子さんら子ども7人の計9人が乗船したが、翌早朝に右舷に潜水艦の魚雷攻撃を受け、家族が寝ていた船倉部が大破。
大勢が死に、生存者も海へ放り出された。
姉妹はトイレのため甲板におり、船と一緒に留萌港に避難した。
岸壁のむしろに遺体が並べられ、姉妹は毎日家族を捜したが、傷みがひどく、顔がわからない遺体も多数あり、見つけられなかった。
家族の遺体はその中にあったか、小平の海岸に漂着した可能性もあると思っていた。 |
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大和民族が嫌う嘘つきシナ人と朝鮮人の共通項=世代を超える怨念!
正当性無き戦後の卑劣な日本政府はシナ、韓国、北朝鮮の歴史戦に加担し、嘘歴史を利用し、己の正当性を証明しようとしているのである! |
2020・9・18 青沼 陽一郎 :作家・ジャーナリスト 東洋経済 青沼 陽一郎よ、出自を明かし記事を書け!
日本人の知らない旧満州「9.18」反日施設の実態 |
「記事抜粋」
米中関係が悪化の一途をたどる中で、日本は複雑な立ち位置を迫られる。
いうまでもなく、アメリカは日本の同盟国だ。
隣国の中国は、日本の最大の貿易相手国だ。
【写真】「偽満州国」「忘れる勿れ」…… 現地に設置された衝撃の石碑
アメリカはあらゆる制裁を打ち出して、中国の覇権主義を切り崩しにかかる。
9月15日から、中国の華為技術(ファーウェイ)への半導体輸出規制が発効されたのもその1つで、日本の半導体メーカーもファーウェイ向け出荷を停止している。
中国にしてみれば、本来ならば今年4月に予定されていた習近平国家主席の国賓としての来日にみられるように、昨今の日本との友好的な関係を維持して、強硬的な姿勢を貫くアメリカとの橋渡し役にしたい。
そう考えていてもおかしくはない。
その日本では、安倍晋三内閣の長期政権が幕を下ろし、16日に菅義偉内閣が誕生したばかりだ。
安倍前首相のように両国首脳と友好的な関係を演出できるか、定かではない。※朝鮮族安倍晋三はトランプ大統領を騙したが、既に、バレバレ!
そうした中で迎える9月18日。
この日は、中国にとって忘れてはならない日だ。
89年前に、満州事変の勃発した日だからだ。
それを
「反日」と結びつけて象徴する場所が中国にある。
■「忘れる勿(なか)れ“九・一八”」
■もう1つの半日博物館の存在 ※シナは自前で建設したのか?
■現代中国の“映し鏡”という皮肉
しかしながら、ここに書かれていることは、まさに今、中国共産党が新疆ウイグル自治区で行っていることに当てはまる。そう思えるのは私だけだろうか。
一国二制度を約束していた香港も、国家安全維持法が6月末の成立施行と同時に、瞬く間にのみ込んでしまった。
今の香港に言論の自由はあるだろうか。
4月には、かねて埋め立て、軍事拠点化してきた南シナ海の南沙(スプラトリー)諸島、西沙(パラセル)諸島を、新たな行政区
「南沙区」
「西沙区」としたことにも、
「侵略・占領」という言葉が当てはまる。
それでも、この展示を私が1人で観て歩いたときのことだ。
日本人に気づいた閲覧客の視線がだんだんと冷ややかになっていくのがわかった。
私の姿を見た子どもは、親に寄り添って何事かをささやく。
まるでこちらを蔑視するように、視線は逸らさない。
「日本人がいる……」
そうささやいていたのだろう。
そういう国を日本は相手にしているのだ。
そんな国が今、アメリカと世界の覇権を争っている。
そのことを忘れてはならない。(一部敬称略) |
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大嘘吐きは和名を名乗る朝鮮人が潜む戦後の日本政府!
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2020・9・12
【海外の反応】「アメリカ史最大の汚点だ!」米シンクタンクの衝撃レポート!
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「コメント」
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仕掛けたシナに応じた大日本帝国!
シナ大陸で日本を裏切った蒋介石(国民党軍と)戦争しただけ!
毛沢東率いるシナ共産党とは戦争をしていない、戦後の日本政府が仕掛けた大嘘! |
2020・9・5 WoW!Korea
習主席「中国・社会主義を崩壊させようとする勢力を“許さない”」=中国人民“抗日戦争勝利”記念座談会 |
「記事内容」
米国・ヨーロッパなどの国々が、新型コロナウイルス感染症の
「中国責任論」、香港国家保安法などのため、中国に圧力をかけている中、習近平中国国家主席は
「中国共産党と社会主義を歪曲・崩壊させようとする勢力を許さない」と伝えた。
【写真】もっと大きな写真を見る
中国共産党機関紙“人民日報”によると、習主席は3日、北京人民大会堂で開かれた中国人民抗日戦争および世界反ファシズム戦争勝利75周年記念座談会に参席し、先のように語った。
習主席は
「中国共産党の歴史を歪曲し、共産党の本質と目的性を汚そうとする、どんな人や勢力にも、中国人民たちは動じない」と語った。 また
「中国人民たちが立てた中国特有の社会主義を侮辱したり、社会主義により成し遂げた偉大な成果を見下す勢力にも、中国人民たちは着実に今まで歩んできた道を進んでいくだろう」と付け加えた。
習主席のこのような発言は、米国が新型コロナの中国責任論、香港国家保安法と南シナ海領有権問題などで、中国を強く圧迫している中、出てきたものである。
これは習主席が、米国の強い圧力にも屈服しないという意志を明らかにしたものとみられている。 |
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「太平洋戦争」は日米のプロパガンダ、何時までやるか? 愚か者! |
2020・8・22 神戸新聞
太平洋戦争末期の極秘地下工場計画 朝鮮人労働者3000人がノミ使い手掘り
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「記事内容」
太平洋戦争末期、兵庫県三田市内のニュータウン地下にプロペラ工場が秘密裏に建設されようとしていたことを7日付の神戸新聞で紹介すると、複数の読者から新たな情報が寄せられた。
建設工事には3千人を超える朝鮮人が労働者として動員され、三田学園の生徒や地元住民らも手伝ったという。
周辺の民家には、工場で使われる予定だったとみられる石材も残っていた。(小森有喜)
【写真】残っていた地下工場のトンネル跡
「戦況が悪化する中で旧陸軍は完成を急ぎ、過酷な現場で朝鮮人労働者が働いていました」
在日韓国・朝鮮人の歴史を研究する
「兵庫朝鮮関係研究会」の徐根植(ソ・グンシッ)代表(69)=同県尼崎市=が話す。
80年代後半に聞き取り調査をしたところ、動員された朝鮮人は募集を受けて希望したり、強制的に祖国から連れてこられたりした人々だった。 ※北朝鮮人の帰国事業があったにもかかわらず、膨大な量の韓国朝鮮人は何故、帰国せず、日本に住み続けたのか?
トンネルを掘る作業はノミを使った手掘りで、崩落の危険を伴った。
「朝鮮人は海軍将校に並んで歩かされ、列を乱すと竹刀で突かれた」
「工事中に3人の死者が出て遺体は近くに埋められた」などの証言もあったという。
米軍の報告資料などによると当時、戦闘機のプロペラを製造していた尼崎市の住友金属工業プロペラ(現・住友精密工業)の疎開先として近畿圏の6カ所が選ばれた。
うちウッディタウンのけやき台周辺(当時、有馬郡広野村)では4カ所の地下工場が計画され、総面積は計約1万8500平方メートル。
地下トンネルの長さは600メートル以上にも及ぶ予定だった。
工事は45年2月に始まり、軍事機密として公にされないまま進められた。
地元住民も加わり、三田学園の3年生も土砂をトロッコで運ぶ作業に就いた。
短期間で建設できる
「半地下工場」もあり、徐々に専門業者も集まる中で一部が終戦1カ月前に完成したが、稼働せずに終わった。
朝鮮人労働者の一部は職を失い、半地下工場跡などに身を寄せた後、
「嫁ケ淵」に朝鮮人の集落ができたという。※何故、帰国しなかったのか? 被害者面せず、理由を言え!
「下井沢」にあった労働者宿舎は子どもに朝鮮語を教える校舎として使われるようになり、後に有馬朝鮮初級学校(78年に閉校)へと発展した。
◇ ◇
90年代からウッディタウンの開発が始まり、地下工場を知る人は減った。
しかし98年5月に陥没事故が発生。
トンネルの真上にあった10世帯が転居する事態になり、埋め立てられた。
近くに住む有鼻至澄(よしきよ)さん(68)=三田市=宅には遺構が残っていた。
蔵の土台や庭の飛び石に長さ2メートル、厚さ20センチほどの御影石が約20枚使われ、それぞれに直径約4センチの穴が空いている。
これらは地下工場で機械を固定する石台に使われる予定だったと伝わる。
当時、工事に関わった
「鹿島組」(現在の鹿島建設)の社員数人を有鼻さんの祖父が下宿させており、自宅を改修中だったことから、いらなくなった石材をお礼として譲ってもらったという。
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正当性無き戦後の日本政府やれねば、大和民族が確り伝える!
鬼畜米国の戦争犯罪! |
2020・8・21 赤嶺玲子 琉球新報 赤嶺玲子よ、出自を明かし記事を書け!
妻子5人失い「絶望」 「対馬丸」遺族、元村長の日記を公開
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「記事内容」
児童や一般疎開者らを乗せた
「対馬丸」が米潜水艦に撃沈された日から22日で76年。
生存者や遺族が少なくなる中、当時の遺族の心境を知ることができる日記が今年3月に南城市教育委員会が刊行した
「南城市の沖縄戦 資料編」で初公開された。
日記を書いたのは戦後に佐敷村長を務めた渡名喜元秀さん(1972年に他界)。
対馬丸の撃沈で妻子5人を失った。
日記には
「生涯取リ返シノツカナイ誤断ヲシタ」とあり後悔が伝わる。
同資料編を編集した南城市史編さん専門員の山内優希さんは
「リアルタイムに書かれたもので、事件当時、遺族が何を思っていたのかをうかがい知ることができる貴重な資料だ」と語る。
日記は1944年3月から始まり沖縄戦中の45年5月2日で終わる。
同資料編では対馬丸に関する部分を抜粋して掲載した。
対馬丸関連の記述が最初に出るのは44年7月20日。
サイパンの日本軍全滅で米軍の沖縄上陸が必至となり、国と県は老人や女性、子どもなどの県外疎開を進めた。
当時、県庁職員だった元秀さんも方針に従い妻子を疎開させた。
8月19日の日記には妻子5人の転出申告と証明書を取得したことが記されているが、その横には
「一生涯ノ誤ヲ起ス」と追記がある。
後日、対馬丸の遭難を知り、悔やむ気持ちを書き加えたものとみられる。
8月21日には妻子の乗る対馬丸が出港。
翌22日の日記には
「家ハ火ノ消ヘタル如ク静淋」とあり、家族を見送った後の寂しい心情が伝わる。
この日の夜に対馬丸は撃沈された。
日記によると、元秀さんが
「風聞」(うわさ)で対馬丸遭難を知ったのは8月25、26日頃。
9月に入ると
「犠牲者ハ少ナキ模様」
「死傷者159人」
「口外無用ノコト」と記しており、情報が交錯する状況が伺える。
妻子の安否を知るために話を聞き回ったようだ。
9月11日には生存者の中に妻子がいないことを知り
「絶望」と書いた。
その後、遺品整理をしたことや知人や親戚が頻繁に見舞いに来てくれたこと、遺骨がないので魂を港で迎えたことなどを細かく記しており、対馬丸撃沈後の元秀さんの生活が垣間見える。
南城市史編さん専門員の山城彰子さんは
「人々が何を考え、どう過ごしたのかは公の資料からは見えにくい。残された人が傷を抱えながら暮らしを続けていたことが日記から分かる。人々の人生や思いに触れることができる資料だ」と話した。
南城市史編さん係によると現在、日記の原本は所在不明という。
旧佐敷町史編さん室が日記を収集し、文字起こししたものを同市が引き継ぎ保管していた。
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正当性無き戦後の日本政府やれねば、大和民族が確り伝える!
戦争犯罪国・ロシアは日本が尻尾フリフリ外交を迫る国に非ず! |
2020・8・20 古田夏也 北海道新聞 大日本帝国と英霊、先人を貶め悪者に仕立てる材料に非ず!
「三船遭難」解明遠く 留萌沖、旧ソ連軍攻撃 日ロ外交動かず |
「記事内容」
伝承者不足、遺族に危機感
終戦直後、樺太(サハリン)からの引き揚げ船3隻が現在の留萌管内沖で旧ソ連軍の潜水艦に攻撃され、民間人1700人余が犠牲となった
「三船遭難事件」から間もなく75年。民間有志による犠牲者名簿の更新が今も続くが、遺族は減り伝承者不足も深刻だ。
遺族はロシア政府に謝罪を求める活動を続けるが、政治レベルの動きはほとんどなく、関係者の危機感は強い。
事件は1945年(昭和20年)8月22日に発生。
緊急疎開船3隻の乗客は女性や子ども、高齢者が大半だった。
92年にロシア側の軍事日誌などからソ連軍の関与が判明するまで、誰が攻撃したかは
「国籍不明」とされた。
ロシア政府は現在も公式に認めていない。
犠牲名簿1594人
国会論戦なく
前略
近年、遺留品や犠牲者が判明する動きもある一方、遺族は高齢化し伝承者も数少なくなった。
3年前には樺太引揚三船遭難遺族会会長を25年間務めた永谷保彦さんが死去、外務省への訪問も途絶えた。
毎年8月21日に樺太引揚三船遭難遺族会が催す留萌市の法要の参列者も減少。
今年は新型コロナウイルスも影響し、案内を出した人はピークの1割の約30人にとどまる。
永谷さんの遺志を継いだ妻・操(みさお)さん(79)=札幌市在住=は戸惑う。
「事件を知る人は年々いなくなり、どう後世に伝えればいいのか」
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大東亜戦争の総括をしない怪しい戦後の日本政府の正体を知れ!
戦後の真っ赤な日本政府が皇民(日本人と台湾人)を捨てた証!
外地に取り残された日本人(台湾人含む)を帰還させず、放棄? |
2020・8・19 東洋経済
8月15日を過ぎても戦争を続けた日本兵の末路 ※戦後の反日日本政府の仲間は「末路」と平気で記す!
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「記事抜粋」
「台湾民主化の父」と呼ばれる李登輝元総統が死去したのは、先月30日のことだった。
日本統治下の台湾に生まれ、日本の教育を受けて育った李登輝は、京都大学在学中に学徒出陣として徴兵される。
兄は日本兵としてフィリピンで戦死。
2007年に訪日した際には、靖国神社に参拝している。
「22歳までは日本人だった」と本人が語るように、終戦まで日本人として生きていた。
岩里政男という日本名も持っていた。
その後は台湾人としてのアイデンティティを貫き、国共内戦に敗れた国民党政権が移行してきた独裁体制から、台湾人による総統直接選挙を実現させるなど、民主化への彼の戦いは続いた。
李登輝と同じように、台湾で生まれ育ち、日本人として戦地に送られた人々は少なくない。
その中には、終戦後も戦地に残って“日本人”として異国の独立のために戦った元日本兵もいる。
■男性が日本に帰らなかった事情
■青年を駆り立てた理想と夢
■宮原が信じ続けた「正義の戦争」
■宮原の生きざまは「貧乏くじ」だったのか
前略
「日本人なんだよ! 日本人として生まれてきたんだ! アイデンティティも日本人なんだよ!」
李登輝は生前、司馬遼太郎との会談で
「台湾に生まれた悲哀」という言葉を語っていた。
他方、宮原は私にこう語っていた。
「はっきり言ってしまえば、貧乏くじを引いたんだ。生まれたとき、日本人として生まれてきた。日本人として教育も受け、国民の義務として、戦いに出された。戦争に負けて、環境が変わった。帰れないからインドネシア軍に参加し、独立を勝ち取った。愛国の志士として、誇りをもっている。それだけのことだ」
だが、この日本人の南方の地での生きざまは
「貧乏くじ」でも
「悲哀」でもない。
宮原だけでなく、戦後を戦い抜いた元日本兵たちの姿がなければ、いまのインドネシアもアジアもなかったはずだ。
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日本の諸悪の根源・日本の闇=朝鮮人問題!
GHQ占領下、朝鮮人が半島と国内で何をしたか忘れるな、大和民族!
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2020・8・18 神戸新聞
敗戦、混乱の満州 報復、敵兵…周囲は全て敵「自力で守るしか」 帰国後も流転の日々
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「記事内容」
日本が無条件降伏した1945年8月15日、満州など外地には数百万人の日本人が残された。
支配者側だった日本人は、終戦を境に中国人ら現地人から激しい反撃を受けた。
自衛しながら待ち望んだ帰国の日。
しかし命からがら引き揚げてきた人々を待っていたのは、安住とはほど遠い流転の日々だった。
兵庫県明石市に住む女性の証言から、当時を振り返る。(吉本晃司)
【写真】妹の最期「母ちゃんに抱っこうれしい」
明石市の木村節子さん(85)は、中国・大連市に生まれ、旧満州(中国東北部)の奉天で育った。
父はカメラや写真機器卸会社の奉天支店長。
戦闘機の写真撮影で関東軍と取引し、42年からは戦闘機製造の下請け会社を経営した。
家族6人のほか書生2人も抱えていた。
「子ども4人にはみなクーニャン(手伝いの若い女性)が付き、ボーイさんが食事を作ってくれた。満州では裕福な家庭でした」
工場で満州人労働者(クリ)にかわいがってもらった。
「母はクリにご飯をちゃんと食べているかと尋ね、食事をさせることもありました」と木村さん。
日本人、中国人の分け隔てなく生活を手助けしていた両親の厚情が戦後、家族の命を救うことになった。 ※シナ人に非ず、満州人である。
■「租界」で自衛
■帰国後も流転
前略
「内地の人は終戦直前、毎日のように空襲があり、大変な思いをされたと思う。でも国破れても国はあった。満州にいた私たちは終戦で国を失い、戦後も自分で自分を守るしかなかった。両親のように、みんなにやさしさを持って接していれば、争いごとはなくなるんじゃないでしょうか」
※争い事は日本人と異質なシナ人と朝鮮人が仕掛けている。
朝鮮人は何故、大きな顔をして日本国に居座り続けられるのか?
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戦後の共産主義者の木っ端役人と和名を名乗る朝鮮人の捏造?
資料は後付け! 父島に何故、アメリカ人捕虜がいたのか?
大日本帝国を悪者のにしたい統治に正当性無き戦後の日本政府ならやる! |
2020・8・16 小池 新 文春 小池 新よ、出自を明かし記事を書け!
「これはうまい。お代わりだ」硫黄島激戦の裏で、日本軍将兵はなぜ“アメリカ人将校の肉”を食べてしまったのか
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「記事内容」
アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた
「父島事件」とは から続く
【写真】この記事の写真を見る(6枚)
< アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは >より続く
父島関係で出廷した証人は堀江少佐ら40人。
捕虜を斬殺した1人の伊藤喜久二中佐は
「I中佐」として証言要旨が
「小笠原兵団の最後」に載っている。
「肝を食い、必勝の信念の養成に処すべし」
あまりの衝撃にアメリカでは「記事の掲載が禁止」
「パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した」
「猟奇の感を免れないが、法的にはいわゆる“死体毀損・侮辱”」
東条首相が発した「戦陣訓」の裏返しの悲劇だった
「必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけった」
みじめな敗戦と、哀れな肉親の死への復讐心
「どうせ死ぬのだから、何をやってもいい」
エリート軍人に対する怨嗟や羨望
「七三一」創始者や「作戦の神様」に憧れて
辻が“妙薬”として飲ませたのは「人間の肝」?
「人に後ろ指さされたくない。仲間外れになりたくない」と思う集団心理
前略
戦時中はそうした人道的な思考がよってたかって袋だたきにされた時代だった。
人肉食をめぐる問題の核心もこのあたりにあるのではないか。
父島事件の経緯を見ても、深刻な飢餓状態ではなく、人間の肉を食べなければならない必然性はなかった。
将兵にあったのは、敵に対する強烈な敵愾心と
「生きては帰れない」絶望と不安、それらに追い詰められた中で
「勇気がない」
「臆病者」と言われることへの強い恐怖心だった。
人肉食は
「肝試し」のようなものだったのかもしれない。
誰もが
「人に後ろ指さされたくない。仲間外れになりたくない」と思う集団心理。
そう考えると、コロナ禍で
「自粛」の同調圧力にあえぐいまの日本社会にも似たような問題がありそうだ。
もちろん
「捕虜虐待、殺害、人肉食」は平和な時代の人間にとっては想像を絶する事態だが、それを取り巻く事情をよくよく見れば、75年後に生きる私たちにとっても全く無縁ではないことのように思えてくる。
※戦後の日本政府は何故、大東亜戦争の総括をしないのか ?
ソ連の残留朝鮮人、従軍慰安婦、徴用工、731部隊、砲弾処理等、何もかも捏造! 東大の和田春樹(朝鮮人か)名誉教授を担ぎ出しての捏造、戦後の日本政府の正体見え見え!
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トランプ大統領が登場した成果!
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2020・8・16 (1/5ページ) 飯塚 真紀子(在米ジャーナリスト) 現代ビジネス
日本への原爆投下は必要なかった…アメリカで急拡大する「新たな考え方」
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「記事抜粋」
アメリカに起きている変化
なぜ、アメリカは原爆を投下したのか?
そう問われたら、アメリカ人の多くはこう答えるだろう。
【写真】ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白
「ハリー・トルーマンが原爆を投下したのは、できるだけ早く戦争を終わらせ、日本本土侵攻により、100万人もの米兵の命を犠牲にしたくなかったからだ」
原爆は戦争を早期に終結させるのに必要だった。
アメリカ人はハイスクールの歴史の授業で
「原爆投下の正当性」をそう教えられてきた。
元大統領補佐官のジョン・ボルトン氏も、オバマ元大統領が2016年5月に広島を訪問した際、フォックスニュースのインタビューで
「原爆投下の正当性」を主張している。
「トルーマンがしたこと(原爆投下)は、私からしてみれば、軍事的に正しかっただけではなく、道徳的にも正しかったのです」
しかし、アメリカでは常識となっているそんな歴史に“NO” を叩きつけるような
「戦争を終結させるのに原爆は必要なかった論」を米紙ロサンゼルス・タイムズは近年掲載している。
「原爆は必要なかった」という考え方は、アメリカが従来教えてきた歴史を修正するような
「歴史修正主義」的な考え方であると指摘する専門家もいる。
歴史修正主義とは、歴史家に共有された通説から離れ、自身のイデオロギーに沿った独自の解釈をすることを指す。
「原爆必要だった論」を信じる専門家は
「広島に原爆を投下するより前に、日本が降伏を決めていたとする証拠はない」と指摘し、そうした専門家のなかには
「原爆必要なかった論」を
「歴史修正主義」とみなす者もいるというわけだ。
ちなみに、
「歴史修正主義」というと、“世界の眼”からすれば、安倍晋三首相も立派な歴史修正主義者だ。 ※歴史の修正と言えば戦後の真っ赤な木っ端役人が主導する日本政府(和名を名乗る多くの朝鮮人含む)であ。
戦後の日本政府は日米や日支、日韓、日北の大嘘の歴史を国家統治の正当性の根拠に最大限、利用し、大和民族を騙したのが日本の戦後政治である。
日本にネット社会が到来し久しいが、多くの大和民族が自ら史実を知る時代が到来、戦後の日本政府が都合よく自ら捏造した事案も悉くバレ始めている。
戦後の真っ赤な日本政府が日本国に定着させた大日本帝国悪玉論である。
大日本帝国悪玉論を利用し、日本に集っているのが、シナであり、韓国、北朝鮮である。
日本に定着しつつあった捏造された日本の嘘歴史は今、遂に暴かれ、バレ始めており、戦後の日本政府が利用した大嘘の歴史を肯定出来なくなっているところまで、朝鮮族安倍晋三率いる日本政府は今、追い込まれていると言う事だ!
何も知らん飯塚 真紀子よ、日本に関わる記事を書くな、愚か者!
世界的には
「慰安婦の強制連行」は史実として認識されているが、それを否定する安倍首相の
「強制連行はなかった」とする見方は、歴史修正主義だとして欧米のメディアから批判されてきた。
日本としては
「負の歴史」を修正することで、かつての過ちをなかったことにしたいのだろうが、一方でアメリカの
「原爆は必要なかった論」は、同じ歴史修正主義でも、原爆投下という
「負の歴史」を
「必要だった」と正当化してきた史実を否定しているのであるから、アメリカの過ちを認めるような
「歴史修正」といえる。
ソ連参戦という要因
ポツダム会談で話されたこと
天皇をめぐる、アメリカ国内の対立 ※実態を知らぬ!
日本は5月に降伏していたはずだ…
アメリカ人の意識の変化 ※必然だよ!
国連で軍縮を担当する中満泉事務次長は
「核のリスクは冷戦ピーク時以降、最も高い」と『エコノミスト』誌上で警告し、ストックホルム国際平和研究所も、世界での核弾頭の数は約3%減少したものの、全保有国が核兵器の近代化を進める動きに懸念を示している。
また、安倍政権も、3年前に国連で採択された核兵器保有や使用を禁ずる核兵器禁止条約に賛同していない。 ※朝鮮族安倍総理の身内である、自国防衛を放棄している佐藤栄作が唱えた「非核三原則」こそ絵に描いた餅であり、欺瞞である。
欺瞞の裏に隠されたGHQ指令、日本国破壊と大和民族殲滅が隠されているのである。
「原爆の日」、松井広島市市長は平和宣言で核兵器禁止条約の締約国になることを求めたものの、安倍首相は今年の挨拶でも核兵器禁止条約に言及することはなかった。
今も核兵器を手放すことができない世界の大国。
それだけ、原爆が人類に与えた恐怖は大きかった。
そんななかアメリカで少しずつ力を持ちつつある
「原爆は必要なかった論」。
1945年、原爆投下直後の世論調査では85%のアメリカ人がトルーマンの決断を正当化していたが、2018年の世論調査では、その割合は56%に低下した。
この変化が何を意味するのか、もう少し時間をかけて見極める必要がある。
※原爆は世界からなくなる事はあるまいが、日本は唯一の被爆国、日本だけ原爆を所有する資格有り! 自主憲法発布後、大和民族が核保有するか否かを決めればいい!
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我那覇真子が暴いた戦争体験者繰り出す体験談の大嘘(工作)!
統治に正当性無き戦後の真っ赤な日本政府と反日勢力がタッグ!
大日本帝国と英霊、先人を貶め悪者に仕立て上げる陰謀!
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2020・8・15 大和民族必見動画!
終戦75年8月15日 戦争体験話を語り継ぐ |
「コメント」
※多くの投稿あり!
日本国と大和民族は有史以来、初の危機に直面している! 仕掛けているのは朝鮮族安倍晋三と戦後の日本政府である。
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大和民族は程度の低いソ連人(ロシア人)の仕打ちを語り継げ!
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2020・8・15 志村英司 朝日新聞
俺の手、まるでミイラの様 「衣食住ない」シベリア抑留
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「記事内容」
仙台市太白区の庄子英吾さんは、連日パソコンに自身の戦争体験記を打ち込んでいる。
戦後75年。
今月20日で94歳になる。
18歳で旧満州にあった軍官学校に入り、終戦後は3年間のシベリア抑留で死線をさまよった。
【写真】庄子英吾さんが記したシベリア抑留体験記や遺骨収集の写真集など
「良く見るとこれが俺の手かと思う程、骨と筋と皮ばかりで、色もどす黒く、まるでミイラの手の様だが、間違いなく俺の手なのだ」 7月に執筆した
「ああ我が母校」と題した体験記で、シベリアで
「発疹(はっしん)チフス」にかかったことをこう振り返った。
シラミが媒介する感染症で、強い頭痛や発熱、体に発疹が出るのが特徴。
3カ月間、注射も薬もない収容所内の病院に横たわった。
多い日には18人が死亡したと聞かされた。
体験記は約1万2千字(400字詰め原稿用紙で30枚)で、数日で書き上げた。
記憶は鮮明だ。
きっかけは、1期生で入学した母校の仙台市立仙台高校(当時は仙台中学校)から、創立80周年を知らせる案内状が届いたことだった。
「多くの人に戦争のことを知ってもらいたい」と思った。
庄子さんは、1944年末に旧満州の新京(現・長春)にあった軍官学校に入校。
爆弾を背負って戦車に体当たりする訓練などを繰り返すうち、終戦を迎えた。
旧ソ連側から
「東京に帰る」と言われて乗った貨車は、シベリアのブカチャーチャへ。
炭鉱の町での強制労働を強いられた。
「衣食住が何もない。衣は帰国ということで夏服を着ていた。食はソ連の手に握られて自由にならず、支給を待つばかり。住に至ってバラック一つ無い」
そう振り返る収容所の施設や逃走防止の鉄条網なども自分たちでつくらされた。
冬場は零下40度を下回る。
着のみ着のままで栄養状態が悪く、死者が相次いだ。
そのたびに庄子さんたちが
「一本松墓地」と呼んだ場所まで大八車で運んだ。
入校時375人いた同期のうち83人が抑留中に犠牲になった。
「帰国しても捕虜の事は恥ずかしくて家族以外には、殆(ほとん)ど語らなかった」といい、農協勤務やプロパンガス販売など仕事に打ち込んだ。
2人の子どもを育て、幸せな家庭を築いた。
だが、91年に墓地調査のためのシベリア訪問が許され、記憶の風化を思い知らされた。
地元住民で墓地の場所を知っている人はいなかった。
「四十数年前のことが、そんなに早く忘れ去られるものか」。
驚きと同時に憤りを覚えた。
2年後の遺骨収集団にも加わり、約370人分の遺骨を千鳥ケ淵戦没者墓苑に納めた。
2012年には仙台高校で初めて抑留体験を語るなど、講演で各地に出かけた。
「同期のあの83人に自分は生かされている」という思いが強い。
数年前からしゃべりづらくなり、執筆に力を入れる。
国から元抑留者に支給された25万円も体験記の製本にあてた。
記憶の風化にあらがうのは、
「咲かずに散った同期の桜たち」のためだという。
軍官学校の同期で宮城県出身の10人ほどのうち、存命は庄子さんだけ。
「横になって構想が浮かぶと、起きてパソコンに入力することもある。若い人たちには、国を守ることの大切さと、戦争の悲惨さを知ってもらいたい」 軍官学校の名簿や、遺骨収集の様子を撮影したビデオテープなどは、今後の調査研究に役立ててほしいと願う。
問い合わせは、庄子さんが入居する高齢者施設
「時のかけはし」(022・226・7221)へ。
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台湾人を野蛮な大嘘吐きのシナ人と朝鮮人を同列に考えたのか?
何故、日本と台湾を切り離したのか?
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2020・8・15 田中美帆 台湾在住ライター
終戦記念日に考えてほしい「台湾統治」の歴史的事実 「祖国」日本に向かった48万人の苦悩
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「記事内容」
記録に見る48万人の移動
1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送は、台湾にもラジオを通じて伝えられた。
当時、台湾の人口は約658万人。
終戦によって人々は日本へ引き揚げると、1946年の台湾の人口は約610万人となった。
約48万の人々はどのようにして日本へ向かったのだろう。
MRT永安市場駅から徒歩2分ほど歩くと、国立台湾図書館がある。
ここは、日本統治時代に設立された台湾総督府図書館を前身とした図書館だ。
そのため当時の資料が多く残されており、貴重な資料が閲覧できる。
台湾図書館に所蔵されている台湾の引き揚げに関する資料は多くない。
引き揚げ計画から実行に至るまでの公文書をまとめた『台湾 引揚・留用記録』(河原功監修、ゆまに書房、1997年)、引き揚げの方たちが発行した通信などその後の足跡がわかる『台湾引揚者関係資料集』(不二出版、2011年)を参照しながら、当時の状況整理を試みる。
台湾からの人々の輸送が始まったのは、1946年2月下旬になってからだ。
前年8月15日の玉音放送から半年が経っていた。
この間の状況について、次のような一文がある。
つづく
移動にまつわる諸問題
アンケートに見る心の揺れと苦難
体験記に見る接収と交錯する感情
前略
今、コロナ禍で移動に強い制限がなされている。
この春、台湾から日本へ留学や就職が決まっていた人たちが、急に渡航ができなくなり、人生設計が大きく狂わされた話も耳にした。誰しもが忘れられない日常を過ごしている。
75年前、今と反対に移動を余儀なくされた時代が確かにあった。
終戦記念日の今日、その歴史とともに、1895年から1945年までの50年間、台湾は日本だった歴史的事実もまた、忘れずにおきたい。
※台湾人と朝鮮人は人間の程度が大違い!
白色テロも経験し、苦労をしただろうが、和名を名乗る多くの朝鮮人が潜む戦後の日本政府の統治下に暮さない方が良かったかも知れない。
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虚像、大嘘の731部隊!
統治に正当性無き戦後の真っ赤な日本政府の工作? |
2020・8・15 (1/4ページ) 現代ビジネス
731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」
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「記事抜粋」
731部隊にいた10代の少年兵たち
「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話していました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』なんて人もいましたね。まだ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作っていることも知ってましたよ」
【写真】ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白
たった14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。 ※須永鬼久太よ、お主日本人か? 満州に渡ったのは何時だ!
関東軍防疫給水部本部、通称
「731部隊」。
満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行っていた。
しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発していたとされる。
14歳から17歳という多感な青春時代を、須永は
「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。
戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言できる元隊員は少ない。
満州の地で、彼はいったい何を見たのだろうか。
節目の年に、あらためて話を聞いた。
むごたらしい人体実験の実情
2つの「日常」が重なり合う
彼ら少年兵の経験を学ぶ意味
前略
戦後しばらく沈黙を貫いた須永は、
「部隊内で見聞きしたことは話してはならぬと徹底的に教育されていたから、終戦後も731部隊のことは家族にすら話さなかった」と語る。 ※大嘘っぽいが、事実なのか? 実態は既にバレているぞ!
しかし7~8年前から取材に応じるようになった。 ※戦後の真っ赤な日本政府の手が入ったのか?
「731部隊のことが報道でこれだけ世に知られたので、『もう全てオープンにしてしまったほうがいいだろう』と生きている隊員たちで話し合い、数年前からメディアに出るようになったのです。非人道的な実験によって細菌兵器を研究していたのですから、今考えれば間違ったことだったと思いますよ。でも、当時はそれが当たり前でした」 ※部隊が十四歳の少年を使った? あり得ない!
軍上層部からの教育や環境への適応の結果、彼ら少年兵にとって、非人道的な人体実験は
「美味しい水餃子」と同じ
「日常生活」となった。
異常な環境も戦時には
「日常」となりうる。
戦後75年を迎えてもなお、われわれは須永の証言から引き出されたこの事実を、見つめ続けなければならない。
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戦後の日本政府(朝鮮系)が大和民族に仕掛ける罠!
天皇陛下と由緒ある日本国、大和民族を守る使命を持つ大和民族! |
2020・8・15 伊勢新聞
戦後75年 揚子江の機雷回収 中国での捕虜体験、湯浅さん明かす
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「記事内容」
75年前のきょう15日、日本は終戦を迎えた。
月日の経過と共に戦争の記憶が薄れつつある中、戦時中に軍属(軍隊での非軍人)として活動した尾鷲市天満浦の湯浅國一(くにいち)さん(91)に、当時の体験や今伝えたい思いを聞いた。
太平洋戦争中の昭和19年、湯浅さんは16歳で海軍の軍属に志願して中国へ渡り、日本船が安全に運航できるように、揚子江(長江)の警備にあたった。 ※太平洋戦争に非ず! 大東亜戦争である! 嘘を吐くな!
終戦後も捕虜として中国に残り、米軍の爆撃機が揚子江に落とした機雷を回収した。
國一さんは
「戦争で苦しむのは一般の人だ。戦争は絶対に繰り返してはいけない」と願う。 ※仕掛けられれば戦わなければならないのが戦争! だから、負け戦だけはやってはならない、大東亜戦争の教訓である!
尾鷲市出身。
3歳の時に父親が亡くなり、長兄も早くに病死した。
きょうだいが多く家族を養うため、次男の國一さんは給料が支給される海軍の軍属として中国へ。※中国に非ず、シナである!
中国では、徴用船の
「福寿丸」の乗組員として、南京や上海に向かう日本兵や食料などの物資を載せた日本の軍用船が、揚子江を安全に運航できるように警備していた。
船には國一さんのほか兵隊を含む7人ほどが乗船し、揚子江を渡る中国の船舶を呼び止め、銃など武器となる物資を回収。
夜も交代で見張った。
当時、砂糖は火薬とみなされ、発見すると没収するよう命令されていた。
國一さんは、中国人女性が
「子どもに食べさせる」と言うと、見逃していたという。
「乗組員には兵隊もいて、砂糖を見つけると容赦なしに回収していた。本当はだめだが、かわいそうで没収できなかった」と話す。 國一さんらは半年に一度、船を洗浄するために船の修理施設
「ドック」を訪れていた。
終戦前のある日、米軍の潜水艦に攻撃されたとみられる日本の軍用船が、ドックへ入って来た。
船には大きな穴が空いていて、そこから10代くらいの何百人もの若者の死体が折り重なっているのが見えた。
手足は泥だらけだった。
「南方へ向かう海軍飛行予科練習生だったと思う。安らかに眠ってくださいと手を合わせることしかできなかった」。
揚子江の警備にあたる中、國一さんは召集令状で海軍陸戦隊へ入隊したが、3日目に終戦となった。
「戦争がひと月でも長かったら兵隊として戦地へ行き、恐らく戦死していた。私は運がよかった」と語った。
終戦後、すぐには帰国できず、捕虜となり揚子江に沈んでいる機雷の回収をした。
2隻の船に取り付けたワイヤを機雷とその重りをつなぐひもに引っかけて船の速度を上げてひもを切る。
すると機雷が浮いてきて、機関銃で撃ち爆発させた。
機雷に当たって沈没したり破損したりする船もあったため、命懸けだった。
終戦から半年後の昭和21年2月、日本に帰国できることになったが、日本が敗戦したため、うれしい気持ちにはなれなかったという。長崎県佐世保市から超満員の汽車で故郷の尾鷲市に帰る途中の広島駅で、婦人会がお茶を出してくれたことは忘れられない。
「原爆を落とされて私らより大変な思いをしているのに、お帰りといたわってくれてうれしかった」と振り返る。
帰国後は尾鷲市から遠洋漁船に乗り、インド洋などでカツオやマグロを捕った。
30歳で妻和子さん=現在(86)と結婚。
56歳で遠洋漁船を下りたが、80歳まで尾鷲湾で定置網漁をした。
今は和子さんと暮らしながら、友人の定置網漁の手伝いに行っている。
これまで中国での経験を家族にもほとんど語ることはなかった。
「(終戦後の昭和21年2月に)中国から尾鷲に帰り、戦時中に当時3歳の妹が防空壕(ごう)で亡くなったと聞いた。戦争が無かったら妹は生きていたかもしれない。私らも戦争の犠牲者だ」と言う。
「私ら以上に大変な目に遭った人もたくさんいる。国のために戦った人たちのおかげで今の日本がある。戦争を知らない世代にも知ってもらいたい」。 |
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GHQ占領下の臨時政府と統治に正当性無き戦後の日本政府の大罪!
政府が米軍に提供したパンパンと呼ばれた敗戦の犠牲者・日本人売春婦と混血児の悲劇!
敗戦による大和民族の悲劇は今尚、続いている!
戦後、朝鮮人が何人、日本国の総理大臣になったのか?
肝に銘じよ、戦争するなら、絶対に負け組みに組するな、大和民族! |
2020・8・13 高堀 冬彦(ライター、エディター) 現代ビジネス
米兵との混血孤児として生まれ、ベトナム戦争で散る…青年ヨシアキが示した戦争の悲哀 |
「記事内容」
凄まじい反響だった「サンダース・ホームの1600人」
「混血孤児たちの母」と呼ばれた澤田美喜さんが亡くなってから40年が過ぎた。
戦後混乱期の1948年に児童養護施設
「エリザベス・サンダース・ホーム」(神奈川県大磯町)を設立した人である。
【写真】ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白
この施設に入所した子供は進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれた孤児。
兵士による性暴力によって生まれたり、兵士が父親の責任を取らなかったりした子供たちである。
クリスチャンだった美喜さんは、この子供たちを育てるのが自分の使命と考え、困っている女性から無条件で預かった。
その数、約2000人。
小中学校も併設し、18歳まで育て上げ、社会へ送り出した。
美喜さんのホームを広く世に知らしめたのは日本テレビの歴史的ドキュメンタリーだ。
1978年7月、ゴールデンタイムで2時間にわたって放送された『子供たちは七つの海を越えた~サンダース・ホームの1600人』である。凄まじいと言っても過言ではない大きな反響を呼び、この年の芸術祭大賞も受賞した。
どんな番組だったかというと、放送時点で施設から旅立っていた1600人のその後を追った。
養子縁組や移民などで海外に渡っていた出身者も追跡調査。
そのうち米国にいた20数人はニューヨークの国連本部前に集まり、日本の美喜さんと衛星中継で対面。
出身者たちが次々と
「ママちゃま(美喜さんの通称)」と語り掛けると、美喜さんは感極まった。
もっとも、その場にいるはずの1人の男性の姿がなかった。
後田義明さんだ。
母親が不良米兵に乱暴されて1947年に生まれ、51年からホームで暮らし、58年に渡米していた。
義明さんの母親は当初、自分1人で子供を育てるつもりだったが、生活が困窮。
なにより、差別や偏見のあった混血児を独力で育てる自信がなかった。
このため、義明さんが4歳のとき、美喜さんのホームに預ける。
その後、母子が再会することは二度となかった。
それでも義明さんは美喜さんから精いっぱいの愛情を注がれた。
11歳のとき、米国サウスカロライナ州コロンビアの家に養子に入り、名前はスティーブ・ヨシアキ・フラハティに変わったが、やはり大切に育てられた。
22歳の若さだった
その日が訪れる前に…
戦死から26年の時を経て…
前略
美喜さんとホームの物語、義明さんの個人史は、戦争が遠くなっても多くのことを考えさせる。
直子さんが亡き夫の残した取材に自分の取材も加え、『ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ』を書いた理由は、まず夫の仕事を形として遺しておきたかったためだが、それだけではない。
「戦争を風化させてはいけないという思いもありました」(直子さん)
日本の一番長い日から75年が過ぎた。
8月13日の
「奇跡体験! アンビリバボー」(フジテレビ、木曜 午後7時57分)は直子さんの書いた『ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ』に基づき、義明さんの生涯を振り返る。
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国家統治に正当性無き戦後の日本政府の罠に嵌った戦時体験者! |
2020・8・12 埼玉新聞
若者は即戦力、勉強より戦争が大事…戦闘機の部品製造にささげた青春 宮代の女性、断片的な当時の記憶語る |
「記事内容」
戦後75年がたち、
「周りはもう、戦争を知らない人たちばかり。当時の話はすることはないと思っていた」と埼玉県宮代町の山野井八重子さん(91)は語る。
女子学生が軍需工場などで労働に従事する
「女子挺身(ていしん)隊」の一員として、群馬県で戦闘機の部品製造に従事。
貴重な青春をささげ、複雑な気持ちで終戦を迎えた。
飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師 戦後72年…激戦地で生き、戦後は助産師で赤子抱く
「当時の記憶も断片的にしか覚えていない」という山野井さんは、群馬県館林市の館林高等女学校(現館林女子高校)に通っていた。
太平洋戦争が始まっても、1、2年の時は学校で授業を受けられたが、3年になると、同級生全員が市内の小さな工場に派遣された。 ※大東亜戦争経験者が太平洋戦争と口にする馬鹿馬鹿しい現実だが、戦後の日本政府による洗脳の証である。
1944年5月。
当時16歳の山野井さんは、高校の先輩や都内から疎開してきた学生ら約200人と共に、戦闘機の尾翼製作に従事した。
「いつ学校に戻れるのか」と不安に駆られながらも、ペンを電気ドリルに持ち替えて、零戦の鋲(びょう)打ちに日々、汗を流した。 「若者は男女問わず日本の即戦力として扱われた。勉強よりも戦争が大事。勉強をしたいなんて、あの頃は考えることもなかった」 作業中に空襲警報が鳴ると、荷物を抱え、みんなで近くの山に避難した。
山野井さんが働く工場は直接の被害は受けなかったが、45年2月ごろ、同県太田市内の工場が甚大な空襲被害を受けて、
「次はここに来るのではないか」と、不安に押しつぶされそうになった。
ただ、そんな厳しい生活の中にも、安らげる瞬間はあった。
半日作業の時は学校に行き、先生たちと雑談したり、映画鑑賞を楽しんだ。
4年の卒業式には、
「君が代」と
「海ゆかば」を泣きながら歌った。
工場からは1カ月につき、7円50銭の給料が支給された。
学校の月謝を払うと、いくらも残らなかったが、それなりの買い物はできた。
自宅通勤の山野井さんは
「食事も家で取れたので、疎開の人たちと比べたら、まだ恵まれていた」という。
戦時下の物資不足で白いご飯は食べられず、モロコシやサツマイモが主食だった。
8月15日の玉音放送は工場内で聴いた。
敗戦を知り、
「これだけ一生懸命やってきたのに」という悔しさ、
「これで戦争が終わる」という喜び、
「明日から、学校にも行けなくなってしまうのではないか」という不安が入り交じり、自分がどんな表情で耳を傾けていたのか覚えていない。
「戦争の真っただ中、若さと情熱でとにかく精いっぱい生きてきた」と語る山野井さん。
若者と接する機会は減り、戦争の無残さ、平和の尊さを伝えることは少ないが、戦争を知らない人たちにこうメッセージを送る。
「今では、お金を出せば解決できることが増えているが、もっと辛抱をする気持ちを持って生きてほしい」 |
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人種差別主義者・チャーチルの陰謀or恩がありながら敗れた腹いせ!
鬼畜米英を証明した二種類の原爆投下実験(戦争犯罪)! |
2020・8・12 (1/2ページ) クーリエ・ジャポン
米紙「日本が降伏することを知りながら、落とす必要のない原爆を我々は落とした」
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「記事抜粋」
第二次世界大戦を終結させるうえで、原爆投下は本当に必要だったのか?
ピュー研究所の調査(2015年)によると、アメリカにおける65歳以上の70%が原爆投下は
「正当だった」と答えていた。
しかし18~29歳になると、
「正当だった」と答える割合は47%まで下がるという。
【画像】俯瞰写真で見る「焦土と化した広島」
かつてのリーダーが下した決断は正しかったのか。
そして正しい歴史は現代に伝わっているのか──原爆投下にまつわる歴史を専門とする歴史学者ガー・アルペロビッツとマーティン・シャーウィンが、米紙
「ロサンゼルス・タイムズ」に寄稿した。
大手米紙がこのような論調を掲載をすることを多くの日本メディアは驚きをもって報じた。
その全文をお届けする。
彼らは、原爆を落とさずに済む道を知っていた
当時から原爆投下を悔いていた人たち
前略
マッカーサーは原爆を使うことは許されないと考えていた。
彼はのちに、フーバー大統領に手紙を書いている。
もしトルーマンがフーバーの
「賢明で政治家らしい」助言に従って降伏条件を変更し、天皇を守れることを日本人に伝えていたら、
「日本人が条件を快く受け入れたことは間違いなかっただろう」と。
爆撃の前に、アイゼンハワーはポツダムで
「日本人は降伏する準備ができていた。あんなひどいものを投下する必要はない」と語っていたという。
残っている証拠は、彼が正しかったことを示している。
そして針を進める一方の
「世界終末時計」は、暴力的な核時代がまだ終わっていないという現実を、私たちに突きつけるのだ。
※大和民族は300百万人以上の犠牲を払った大東亜戦争より、正当性無き戦後の日本政府による戦後政治が齎している被害の方がより強烈である。
戦後政治の最終仕上げを実行している朝鮮族安倍晋三! 朝鮮族安倍総理が仕掛けている日本国破壊と大和民族の浄化政策に、一刻も早く気付けよ、大和民族!
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FNNよ、大和民族の敵、戦後の正当性無き日本政府に協力するな! |
2020・8・12 執筆:FNNバンコク支局 武田絢哉 FNN 武田絢哉よ、出自を明かし記事を書け!
終戦から75年…旧日本軍が建設した“死の鉄道” 悲劇の現場で働いたタイ人とマレーシア人の証言
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「記事内容」
悲劇の現場
タイは第2次世界大戦中、日本と同盟を結び敗戦国となったが、抗日レジスタンスの活動などが考慮され、連合軍の植民地にならず占領を免れた。
多くのタイ人は、
「戦争の被害者」という意識はあまりない。
しかし、戦争によって人生を狂わされ、戦争の残酷さに直面した人たちは少なからずいる。
【画像】連合軍の捕虜やタイ人などの労働者が働いていた当時の鉄道の建設現場の画像を見る
旧日本軍がタイとビルマ(現ミャンマー)の間に建設した泰緬(たいめん)(注)鉄道もそうした悲劇の現場の一つだ。
泰麺鉄道は全長415キロ。
軍事物資の補給路確保を急いでいた旧日本軍は大量の人員を動員して、1943年10月、わずか1年3カ月ほどの突貫工事で鉄道を完成させた。
建設作業に関わったのは、主にオーストラリアやイギリス、アメリカなどの連合軍の捕虜、
タイやミャンマー、マレーシアなどの労働者だった。
建設機材が不足する中で、深い密林を切り開く過酷な作業に加え、伝染病や飢えなどによって数万人が犠牲になったという。
このため“死の鉄道”とも呼ばれている。
当時の状況を知る関係者2人から話を聞いた。
注:泰はタイ、緬甸(めんでん)はビルマを指す。
大勢の捕虜が亡くなった“死の鉄道”の建設現場
12歳で“死の鉄道”の建設現場に
大戦から75年…新しい泰緬鉄道の資料館オープンへ
戦時中、トンプロムさんが生活していたトンパープン地区の寺
「ワットターカヌン」。
この寺の脇に泰緬鉄道の建設現場で働いていた連合軍の捕虜のための施設があった。
この施設の跡地に、現在泰緬鉄道の史料を集めた資料館のオープンの準備が進められている。
この近くには、実際に泰緬鉄道の線路が通っており、すでに案内看板が設置されているほか、館内には建設現場の写真や旧日本軍の史料などが展示される予定だ。
戦争の記憶を後世に残す役割が期待されている。
第2次世界大戦の終結から今年で75年。
大戦を経験した多くの人たちがすでにこの世を去っている。
残された人たちの証言を聞き、後世に伝えることは今を生きる我々の使命である。
旧日本軍が進駐したタイ。
泰緬鉄道の建設では、多くの犠牲者を出した。
タイの共同墓地には亡くなった連合軍の捕虜たちが眠っている。
名前が記されていない墓石もあり、無念のまま亡くなった人々の思いに胸が痛む。
タイに残る泰緬鉄道の一部路線には、今は多くの観光客が訪れるが、75年の節目に改めて戦争の悲惨さを考える機会としてほしい。
※大日本帝国の戦前の政治情勢に酷似している朝鮮族安倍政権、アメリカのシンクタンクから指摘があるが、今回は低俗な朝鮮系とシナ系に翻弄されているのか? 日本のメディアと保守論客さえ無視を続けている。
戦後に日本政府は大和民族を騙し、間違った方向に舵を切り続けている。
目覚めろ、大和民族! |
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人類の敵・習金平とシナ共産党を潰せ!
大和民族は由緒ある日本国の為、二度と負け組になる訳にはいかぬ! |
2020・8・9
『米中情報戦は崖っぷちで米国が勝利する:その時、日本はどうするのか!』第203回【水間条項TV】フリー動画
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「コメント」
※多くの投稿あり!
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ロシア人、どの面下げて言っているのか? 大嘘吐き!
大日本帝国はソ連に負けた訳ではなく、約束を履行した大本営!
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2020・8・9 モスクワ=田村雄
「日ソ中立条約」破棄し参戦、ロシアが正当化強める…「作戦の動機失わせた」
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「記事内容」
ソ連が第2次世界大戦末期に対日参戦してから、9日で75年となった。
後継国家ロシアは、日本と領土の不可侵などを約束した
「日ソ中立条約」を一方的に破ったソ連の参戦を正当化する姿勢を強めている。 ※ロシア人はこの程度!
セルゲイ・ラブロフ露外相は6日、広島への原爆投下から75年に合わせて発表した声明で、ソ連による対日参戦について
「日本に軍事作戦を続ける動機を失わせた」と主張した。
ロシアのエフゲニー・ジニチェフ非常事態相は5日、北方領土の国後島を訪問し、領土問題で日本に譲歩しない姿勢を改めて誇示した。
※日本はポツダム宣言を受諾後、ソ連は満州と千島に進軍=明らかに条約違反!
満州の関東軍は武装解除後だったが、対ソ連戦の準備に入ったが、大本営は許さなかった。
ロシア人は犬畜生と同じ、日本の婦女子を弄んだ汚い連中である。
千島の占守島の戦いは大日本帝国軍は非戦闘員と婦女子を逃がす為、戦闘態勢を整えソ連軍に立ち向かい勝利したが、大本営から戦闘中止命令が届き、やむなく戦闘を中止、捕虜になったのである。
日本人を奴隷扱いをしたロシア人、汚い連中である。
ソ連の戦争犯罪を世界に問おうか? 今からでも遅くは無いぞ、貧弱国家! |
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大恩ある15名の大和撫子、英雄に祀り上げろ、大和民族! |
2020・8・9 (1/3ページ)五木寛之 プレジデントオンライン 五木寛之よ、出自を明かし記事を書け!
662人を日本に帰すため、ソ連兵の性的暴行に耐えた未婚女性15人の苦しみ |
「記事内容」
これからも語り継ぐべき戦争の記憶がある。
作家の五木寛之氏は
「戦争はどう始まり、展開したかという『大局』ばかりが話題になる。しかし、一人の兵士や、戦地で生きた個人の体験こそ戦争の真実であり、彼、彼女らの記憶こそ後世に『相続』されるべきだ」という――。
【写真】満州開拓、休憩中、談笑する開拓団家族=1942年1月1日
※本稿は、五木寛之『こころの相続』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■敗戦の混乱時、日本人女性が味わった性暴力の悲劇
現実社会に
「表」と
「裏」があるように、過去の時代にも
「表」と
「裏」があります。
私たちが生きた同時代についての記述すらそうだから、100年前、500年前ともなればなおさらでしょう。
その当時に生きた人が、歴史の教科書を読めば、仰天するかもしれない。
「これは一体どこの国の話だ」と。
つづく
■ソ連軍の要求は「若い女性」の接待役だった
■「このままでは集団自決しかない」
■べニア板張りの「接待場」で泣き叫ぶ女性たち
■帰国後に向けられた中傷、差別的な言葉 ※吉田茂が新憲法を発布し、GHQ占領下の統治機構を解体し、木っ端役人の人身を新たに戦後の新日本政府を構築していれば、彼女等に辛い思いをさせずに済んだだろうよ。
■ようやく語られ始めた忌まわしい戦争の記憶 ※正義の米と人類の敵・支が戦争するなら、日本は米に加担するのが常識、憲法を楯に傍観する事は許されない! 傍観こそ、再び、日本の未来に禍根を残すことになる。
■無名の「乙女の碑」、記憶を未来に語り継げるのか ※未来永劫、彼女等に感謝を捧げ続けろ!
「乙女の碑」を建てたリーダー格の女性は、碑文の完成を見ないまま、91歳で亡くなりました。
しかし、彼女の願いの一部はやっとかなえられたと言ってもいいでしょう。
彼女たちの語り継ぎの決意は、ようやく実りはじめているようですが、遺族たちにとっては依然として、釈然としない思いが残ります。
経緯を示す碑文は立派なものができましたが、そこには15人の乙女の名は1人も記されていません。
「ひめゆりの塔」や
「原爆の碑」には犠牲者の名が記されて、一人ひとりその尊い犠牲に敬意が払われています。
遺族の中には、開拓団の命を救うために尊い犠牲を払った彼女たちの名は、もっと誇りをもって語られていい、という人もいるようです。 ※当然である、大和民族の英雄である!
しかし、
「誇り」というにはあまりに悲惨な体験です。
私の願う語り継ぎによる
「こころの相続」は、どのように語り伝えられるのでしょうか。
※正当性無き戦後の日本政府の陰謀か?
和名を名乗る多くの朝鮮人を日本社会に潜ませ日本に不公平社会を構築している戦後の日本政府!
大和民族が15名の彼女達を英雄に祀り上げるベキ時期である、今からでも遅くはあるまい!
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正当性無き戦後の日本政府を野放しにしていると日本国と大和民族が滅びるぞ!
感傷に浸る時代は過ぎた、前に進もう、大和民族! |
2020・8・9 中国新聞
人間魚雷「回天」 極限下、最期の手紙に込めた家族への思い 検閲・管理乗り越え届く |
「記事抜粋」
旧日本軍の人間魚雷
「回天」の悲劇を伝える周南市大津島の回天記念館は7月、搭乗員の遺書などをデジタル画像で閲覧できる展示装置を導入した。当時を知る遺族や住民が減る中、戦争の記憶を次代に伝えるため初めてデジタル化された約1300点の全資料。
戦後75年の終戦の日を前に、資料から浮かぶ若者を死に追いやった戦争の狂気や記憶継承の課題を考える。
【動画】人間魚雷「回天」関係者の手紙など 周南市の記念館がデジタル公開
▼幼なじみとの新婚生活は10日
▼死の恐怖大きく
前略
終戦後の残務整理で軍関係者が特攻兵器の詳細を明るみにしないため搭乗員の遺書や遺品は厳しく管理した。
そうした中、回天で戦死した安部英雄二等飛行兵曹の両親はかつての同僚に遺書を手に入れてほしいと依頼。
その同僚がトランクに入れてひそかに大津島基地から持ち出したことを遺族に伝える手紙もデジタル資料で初めて公開されている。 三崎研究員は
「軍の検閲など数々の困難を乗り越え記念館にたどりついた資料は多いはずだ。戦争を知る人が次々と亡くなる中、手紙は搭乗員の思いを知る貴重な手掛かりになる」と受け止める。
※私の誕生日は昭和22年1月、GHQ占領下の真っ只中に私は生まれた。
爺さん婆さんにしてみれば、私が初孫、愛情をいっぱい注がれ育った記憶は私の中に今も鮮明に残っている。
冬の真っ盛り、婆さんは私を傍に誘い、私の冷えきっ足を自らの手で柔らかく暖かい股座に挟み込み温めてくれた。
物心がついた私は親族が集まる中、大東亜戦争が太平洋戦争に置き換えらえて行く様を敏感に感じとっていた私が今、このサイトを立上げ、戦後の日本政府と朝鮮族安倍晋三、政権の正体を暴き、どこまでやれるかは不明だが、日本国と大和民族に注意喚起し、日本国と大和民族を守るべく孤軍奮闘しているのである。
日本が独立以来、毎年繰り返されている世論操作、大和民族に刷り込まれている大東亜戦争の悲惨さ、これぞ、戦後の日本政府の陰謀と捉えるべきである。
日本国と大和民族の敵は国内にこそ存在しているのだ、早く気付けよ、大和民族!
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大日本帝国を裏切ったソ連! ロシア人は真面な人間がいるのか? |
2020・8・6 モスクワ時事
原爆投下で米批判 対日参戦は正当化 ロシア外相
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「記事内容」
ロシアのラブロフ外相は6日、広島原爆の日に合わせて平和記念式典の参列者向けに声明を出し、米軍の原爆投下を
「武力の誇示であり、民間人に対する核兵器の軍事実験だった」と批判した。
ラブロフ氏は
「米国は広島に原爆を投下し、3日後には長崎にも投下した。罪のない民間人の痛ましい死は今日に至るまで地球上の多くの人々の心に痛烈に響いている」と指摘。
「米国はこの種の大量破壊兵器を使用した最初かつ唯一の国だ」と強調した。
一方、第2次大戦の旧ソ連の対日参戦については
「中国と朝鮮を解放しただけでなく、日本に軍事行動継続の動機を失わせた」と正当化した。
※ロシア人が口出すな、裏切り者!
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アメリカの戦争犯罪は他にもあるぞ!
朝鮮族安倍総理と戦後の日本政府の正体もバレバレ! |
2020・8・6 ロサンゼルス共同
原爆投下「必要なかった」 歴史家らが米紙に寄稿 |
「記事内容」
米紙ロサンゼルス・タイムズは5日、広島、長崎への原爆投下を巡り
「米国は核時代の幕を開ける必要はなかった」と題し歴史家らが寄稿した記事を掲載した。
トルーマン大統領(当時)が原爆を使わなくとも日本が近く降伏すると認識していたことは証明済みだとし、
「日本への核兵器使用を巡る真摯な国民的対話」の必要性を訴えた。
歴史家のガー・アルペロビッツ氏とジョージ・メイソン大教授のマーティン・シャーウィン氏の共同寄稿。
米国では原爆投下が戦争終結を早め多くの米兵らの命を救ったとの主張が主流だが、日本との戦争を経験していない若者の増加などで変化の兆しもある。 |
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日本を戦前、アジアで唯一裏切ったのがシナ人!
日本を戦後、唯一裏切ったのが朝鮮人! |
2020・5・5
だが‥最後に勝ったのは「人種平等を夢見た日本」だった!米国の‥ちっちゃな正義の為に「冤罪を着せられた日本」【vol.2・後編・完結編】《永久保存版》
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2020・5・4
米国の‥ちっちゃな正義の為に「冤罪を着せられた日本」…だが、最後に勝ったのは「人種平等を夢見た日本」だった!【vol.1・前編・序章】《永久保存版》 (1)
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(1)(2)
「コメント」
この動画は、参考資料を元にした
「雪乃の考察」により、NEWSや歴史の面白さを伝える教養エンターテイメントです。
注意していただきたいのですが、この動画の内容はあくまでも一説であり、その真偽を確定するものではありません。
より正確な情報が必要な方は専門家に相談してください。 ※日本の専門家と言われる出世を望む歴史学者は反日日本政府の仲間、彼等は歴史を捏造し、日本人を嘘の迷宮に誘うのが生涯の目的としており、日本人は日本の歴史学者を信じてはならない。
ゆえに、当番組の動画は真実を追い求める為の
「フィクション」と捉えていただいても結構です。
※大東亜戦争の前後の日本の歴史は日本人が信じていい人物は近現代史研究家の林千勝と雪乃だけである。
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大日本帝国を敗戦に導いた和名を名乗る朝鮮人の共産主義者!
林千勝と山岡鉄秀よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明しものを言え!
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2020・2・23
戦後"消された"大思想家。魂を失った(抜かれた)日本人。|ゲスト:林 千勝(近現代史研究家)|山岡鉄秀(@jcn92977110 )のTSJ1 |
「コメント」
★山岡鉄秀 ゲスト:林千勝
※多くの投稿あり! |
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欧州戦線で日系アメリカ人が残した大和魂を発揮した逸話がある!
白人がどうしても攻略出来無なかった難攻不落の砦が存在!
日系アメリカ人を捨て駒に使うと、予想もしなかった奇跡を起こした実話! |
2020・2・21 ラスベガス共同
日系人強制収容を公式謝罪 米カリフォルニア州議会が決議 |
「記事内容」
米カリフォルニア州議会の下院本会議は20日、第2次大戦中に同州など西海岸を中心として約12万人の日系人が強制収容されたことについて、日系人の公民権と自由を守れなかったことを謝罪する決議案を満場一致で可決した。
【写真】日系人強制収容所跡地に立つ慰霊塔
決議提案の中心となったアル・ムラツチ議員(民主党)は、トランプ政権による米国第一主義や不寛容な移民政策を念頭に
「中南米からの移民の子どもが施設に入れられている。 同じ歴史を繰り返さぬよう教訓から学ぶべきだ」と訴えた。
決議は
「過去の過ちから学び、このような自由に対する攻撃が二度と起こらないよう保証することが重要だ」などと明記した。
※日系アメリカ人に詫びたが、アメリカ政府日本国と日本人に詫びる事が未だ、多く残っている! |
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ボーゲンソープラン・ドイツの敗戦と米国の仕打ち!
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2020・1・17
【世界大戦】「戦後ドイツを襲った戦勝国の非道」ホロコースト以上の死者を出した占領政策の実態 ~日本再興戦略 歴史修正論「日米衝突の根源」編|藤井厳喜×渡辺惣樹 |
「コメント」
*はじめに
■「日米衝突の根源」編・予告動画
https://youtu.be/pi-22FzI1pw
*第1部:渡辺惣樹氏の講義
■「どこに“日米衝突”の根源があったのか?」東京裁判史観から脱却する歴史修正主義の視点
■「世界史Bに載らない歴史」左翼歴史学者が絶対に答えられない5つの質問
*第2部:日本再興戦略対談
■「もう一つのポーランド侵攻」ドイツと同じことをして攻められなかった国
https://youtu.be/K5gBQ83nUzo
■「日本を陥れた犯人」米国民の9割が知らないハル・ノートの真実
■「ソ連が育てた覇権国アメリカ」IMFを設立したスパイの正体
■「ヒトラーをも嵌めた米国の罠」真珠湾は理由じゃない?米独開戦に追い込んだ謀略の手口
■「幻の和平交渉」ナチスの休戦要求を無視した二人の男
■「戦後ドイツを襲った戦勝国の非道」ホロコースト以上の死者を出した占領政策の実態
■「ポーランドを守れなかったチャーチル」鉄のカーテン演説は敗北宣言?
■「第一次大戦の真犯人」悲惨な戦争を始めた一国の海軍大臣
■「戦後世界を巡る勝者の企み」戦後処理の過ちが生んだ二度目の世界大戦
■「国民の要求、拒まれ続ける譲歩案」2つの狭間で戦争回避に手を尽くしたヒトラー
■「原爆投下が決まった日」主役米国を残して隠れた役者
https://youtu.be/-A_OZxedqh4
■「国民を欺き戦争する方法」米、中、韓がイギリスから学んだものとは
■「ソビエトだけ3票?」裏切り者が操る国連の権力構造
■「紳士の国の正体」米国の大統領選挙を操る英国の超大規模工作
■「政治利用されたピカソ」メディアを使わないプロパガンダの闇
■「正しい歴史書の選び方」大学でも学派でもない…価値ある歴史研究の共通点
*第3部:藤井厳喜の総括
■藤井厳喜の総括 ① | 歴史修正論「日米衝突の根源」編
■藤井厳喜の総括 ② | 歴史修正論「日米衝突の根源」編
*おわりに
■藤井厳喜からのメッセージ
日本再興戦略 歴史修正論「日米衝突の根源」編の購入はこちらから↓
https://payment.dpub.jp/login/CPP_FUN...
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史実・インパール作戦! 玉砕は大和民族殲滅作戦の一手段! |
2020・1・11
インドのために命を懸けた日本人の真実!あの過酷な作戦を生き抜いたインド兵の証言に涙【世界が称賛する日本】
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「コメント」
ナシ
※多くの投稿あり!
日本人が誇れる戦いはパラオ、硫黄島、占守島、インパール、フィリピン、シンガポール、マレー半島、インドネシア等、大日本帝国陸軍部隊である。
ここで一考願いたい。
何故、大日本帝国陸軍が戦後、悪者にされたのか? 大日本帝国は負ける為に大東亜戦争を闘った訳では無い。
大日本帝国政府は米国と戦わず、アジアを植民地支配をするイギリス、オランダ、フランスと戦いアジア解放を目的に大東亜戦争を戦った。
海軍は南シナ海をを南下し、マラッカ海峡を抜け、インド洋から、ビルマに上陸、インドを目指す計画。
帝国陸軍はシナ大陸を抜け、北からインドを目指し、英国軍を挟み撃ちにする計画。
計画には真珠湾攻撃は無かったが、何故か? 帝国海軍が真珠湾攻撃を計画、大日本帝国政府に潜んでいた共産主義者である近衛文麿らによる大日本帝国の敗戦革命(共産革命)を密かに進められていたのである。
駐米日本大使である野村大使もわざと宣戦布告を遅らせた可能性がある。
山本五十六は近衛の命令であろうが、無かろうが、アメリカのスパイだった可能性がある。
日本人は天皇陛下の開戦の詔勅を知れ! 大東亜戦争の目的が示されている。
戦後の日本政府は開戦の詔勅も隠し、嘘で英雄を仕立て上げ、日本人を騙し続けている。
国家として最重要課題である大東亜戦争の総括すら放棄し続けている。
大東亜戦争の総括をしない姿こそ、戦後の日本政府の正体である。
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新春対談
日本人は戦後の日本政府(GHQ指令?)に騙されている!
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2020・1・3
【令和2年 新春特別対談】林千勝氏に聞く[桜R2/1/3]
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「放送内容」
新たな年を迎え、これから日本を取り戻すために何をどうすべきなのか?
これまで優れた洞察力で時代を先見し、有為な視点を示してきた、林千勝氏に卓見を伺う新春特別対談です。
ゲスト:林千勝(近現代史研究家)
聞き手:水島総
※多くの投稿あり!
大東亜戦争を誇れよ、日本人!
日本は今、朝鮮族安倍政権下、戦前の近衛内閣とそっくり!
朝鮮族安倍総理は天皇陛下と日本人を騙し、天皇陛下と日本国、日本人を裏切っている、早く気付けよ、日本人!
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