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世界が嫌うシナ人の本性と悪事の数々
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大東亜戦争&日米戦争は質が全く違う!
和名を名乗る朝鮮人「政官」騙され、戦争に招集された大和民族の日本人兵!
年代 / 2026 2025 2024・2023・2022・2021 2020 2019
から恣意的に隠された朝鮮人による日本侵略の歴史!
朝鮮人
が捏造した大嘘の歴史・明治維新はクーデター以来155年、日本が祖国唯一の日本人の大和民と世界を騙し、日本を乗っ取ったDNAに性癖と火病、虚言癖、異常を有す、銭が命の和名を名乗る朝鮮人独占統治が続く嘘とまやかしで成り立つ汚れた多民族国家日本!
敵国シナ人
による靖国神社落書き問題親支朝鮮人岸田文雄の対し外交に責任!
日清、日露、日韓併合、日中、満州国、大東亜、日米戦争(敗戦革命)は皆、和名を名乗る朝鮮人が仕掛けた日本の戦争=大和民族削減作戦!
靖国神社
に祭られている英霊は日本人と和名を名乗る朝鮮人に区別が必要!
2024・8・23 FNN 
【独自】靖国神社の落書きは10代少年1人の犯行か…数日前に複数人で来日し新宿区内に宿泊 事件当日に中国に出国 
「記事内容」
靖国神社の石柱に   「軍国主義」などの落書きが見つかった事件は、10代の少年1人による犯行とみられることが新たに分かりました。 8月19日未明、東京の靖国神社の石柱に   「トイレ」   「軍国主義」などの落書きが見つかった事件では、前の日の夜、不審な人物が石柱の台座に上っている様子が防犯カメラに映っていました。 捜査関係者によりますと、この人物は10代の少年で、数日前に複数の人と来日し新宿区内のホテルに宿泊した後、1人で犯行に及んだとみられるということです。 少年は、事件発覚当日に羽田空港から中国に出国していて、警視庁が経緯を調べています。
栗原俊雄と毎日新聞に物申す!
被害者
面するな、被害者大和民族の日本人だ!
恣意的
に隠された朝鮮人密入国者の日本侵略の歴史!
和名を名乗る朝鮮人日本が祖国唯一の日本人の大和民族の裏切り者、そして、日本の侵略者!
朝鮮人が捏造した大嘘の明治維新以来155年、大和民族の日本人を騙し、日本を乗っ取ったDNAに性癖と火病、虚言癖、異常を有す反大和民族主義者の銭が命の正義無き和名を名乗る朝鮮人独占統治
が続く嘘とまやかしで成り立つ汚れた危険な多民族国家日本!
然も、日本の犯罪者は和名を名乗る朝鮮人の政官財民!
顔相・職歴・栗原俊雄は明らかに朝鮮人、高祖父母~両親の人種or出自を明し記事を書け!
毎日新聞
は和名を名乗る朝鮮人の巣窟!
明治以後
の日清、日露、日中、大東亜、日米戦争は和名を名乗る朝鮮人が引き起こした戦争!
2024・8・15 (1/4ページ) 栗原俊雄 毎日新聞 
「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶 
「記事内容」
第二次世界大戦下今から80年前の1944年10月日本軍は爆弾を搭載した航空機ごと搭乗員が敵艦などに体当たりする特別攻撃隊特攻を始めた 45年8月の敗戦までの10カ月間でおよそ4000人が命を落とした。 その特攻隊員の中で、最も知られている1人上原良司さんだろう。 戦没者の遺稿集   「きけ わだつみのこえ」に   「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。 だが、良司さんが家族に   「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない 5人きょうだいの末っ子で次女登志江さん(94)に、   「上原家の戦争」を振り返ってもらった。【栗原俊雄】
  3人の兄が戦死 「頭の中でぼかしながら生きてきた」
  はっきり覚えているのが、嫌なんですよ。悲しいというか……。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっとぼかしながら生きてきました」。 昨年9月千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄たちや残された家族のことを語り始めてくれた。 良司さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの3男2女の三男として生まれた。長男の良春さん、次男の龍男さんは慶応大医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。 良司さんは   「航空機のグラビア写真を見せてくれてこれはすごいんだよ』などと話していました」。 また   「ハーモニカが好きで。ときおり『わーかき血に』って歌ってもいましたね」。 慶応の応援歌   「若き血」だ。母と野球の「早慶戦」を観戦し、は   「すごく良かった」と話していたという。 志望大学に進んだ若者の喜びが伝わってくる 上原家の平穏な生活をよそに、日本は戦争を続けていた 37年に始まった日中戦争に続き、41年12月には米英などとの戦争も始めた 龍男さんは海軍軍医となった。 43年10月22日 龍男さんが乗艦していた潜水艦   「伊182」は南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、戦死した。
  「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者
戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。 だが戦況が悪化する中文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。 良司さんは陸軍だった。 地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月特別操縦見習士官に合格した。 その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた 登志江さんは   「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。 軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。 上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめまかり通ってもいた 良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。 たとえば44年5月28日 部隊の1の航空用眼鏡が行方不明になった。 軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。 このため、何らかの理由で失ってしまった者が   「戦友」のそれを盗むことがあった。 この眼鏡がどうだったかは不明だが、   「犯人探しが始まった 名乗り出る者はいなかった 翌29日良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。 同日の   「修養反省録」に、良司さんは書いた。   「恥辱ノ日」。   「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。 航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。 44年6月27日、記した。   「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」 教官に   「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。 上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。 教官は赤字で   「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた 殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。   「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。 戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた 並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
  特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」
45年4月 良司さんが最後の帰省をした。 夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。   「この戦争は負けるよ」。 登志江さんは   「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。 憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。 実際、聞かれたら何をされたか分からない。 良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。   「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから 1869年、明治天皇によって   「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた 戦死者は   「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた 死を覚悟した兵士たちが   「靖国で会おう」と約束することもあった。 戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった 遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。 しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。 帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。   「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします 1945年5月11日 良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機   「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。 22歳。   「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。 登志江さんはそう話す
  「兄たちの死はなんだったのか」
45年夏戦争は終わった 8月15日。 日本政府が連合国による降伏勧告   「ポツダム宣言」を受諾する。 玉音放送を聞いた登志江さんは   「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。 この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた 留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。 だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。 上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ 長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。 それでも   「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。 ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた 登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった 良司さんの   「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。 登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。   「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
  未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」
良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に   「所感」を書き残した。   「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、   「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。   「日本必敗」を予言しながら   「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。 特攻で命を落とした兵士達は   「英霊」とたたえられることがある。   「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。 登志江さんは   「そういうふうになってほしくないですね」と言う。 他方、   「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。   「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
  編集後記
  「一年中8月ジャーナリズム」  
マスメディアは
  「戦後○○年」という表現をよく使う。
大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった
しかし、戦争による被害は終わらない
  「戦後何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない
79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉
  「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、
  「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている
戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。
敗戦後の新聞
  「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ
私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。
私が
  「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。
しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが
  「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。
メディアは毎年8月集中的に戦争報道を行う。
私はそれを一年中やっていることから、
  「常夏記者」を名乗っている
新聞の最大の役目を果たすために、
  「常夏ジャーナリズム」を続けたい。
※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。

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朝鮮人が捏造した大嘘の歴史・明治維新以来155年、大和民族の日本人を騙し、反大和民族主義者の銭が命の大嘘吐きの正義無き和名を名乗る朝鮮人独占統治を続ける日本!
日本の政府
(政官)と統治機構(政官財)は和名を名乗る朝鮮人巣窟=彼等大和民族の日本人の裏切り者、そして、侵略者!
日米戦争は朝鮮人山本五十六が日本に仕掛けた敗戦革命!
現代の刑務所or拘留施設の不審死事件等=捕虜収容所の死亡例原因は同じ!
POW研究会・共同代表:内海愛子/笹本妙子よ、
曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し活動しろ!
大和民族の日本人に濡れ衣を着せるな!   X 私の投稿!
2024・1・14 意味不明・カラロコ 神奈川新聞 明治23年創業・創業者は和名を名乗る朝鮮人?
神奈川に最多16カ所、捕虜収容所の実態明らかに 市民研究者ら事典刊行 全国で3559人死亡 
「記事内容」
太平洋戦争時外国人捕虜の実態を調べている市民団体   「POW研究会」が20年以上に及ぶ研究成果をまとめた専門書   「捕虜収容所・民間人抑留所事典」を昨年12月に刊行した。 旧日本軍は連合国側の戦争捕虜3万6千人国内連行し、約1割に当たる3559人が暴力劣悪な環境から命を落とし、在日外国人の民間人も約1200人が抑留された。 戦時下の捕虜や民間人抑留の全体像をまとめた研究図書は過去になく、市民研究者たちが知られざる   戦争犯罪」の歴史の闇に光を当てた。

  【写真が多数】「京浜地区ワーストの収容所」とされた三菱ドック(現在の横浜市神奈川区) 

開戦直後からアジア太平洋地域の占領地を拡大した旧日本軍米英やオランダなど連合国兵士16万人を捕虜とした。 徴兵による日本国内の労働力不足を補うため、一部が本土へ送られることになったが、輸送船が連合国の攻撃を受け約1万1千人が海に沈んだ 日本に着いた約3万6千人が全国130カ所の収容所に送られた。 日本は当時、捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約を批准していなかったが、開戦後に条約の   「準用」を国際社会に宣言した。 しかし、実際には収容所職員による捕虜の暴行や虐待が横行し、赤十字国際委員会からの救援物資も横取りされて十分な食料や医療も与えられず、強制労働により衰弱した。 草の根の研究成果を996ページにまとめた事典には、京浜工業地帯を抱えて全国最多16カ所が設置された県内の収容所も詳述。 少なくとも2500人以上が収容され、213人が亡くなったとされる。

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インドネシア
は日本の裏切り国家・独立出来た理由を捏造!
せっせと貢いだ和名を名乗る朝鮮人政治家日本企業とは名ばかりの朝鮮人企業!
2023・12・10 Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事
「侵略者の子孫」と言われて――インドネシア社会に残る占領の傷と向き合う、残留日本兵の孫#戦争の記憶  
「記事内容」
1941年12月8日未明に起きた真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争で、インドネシアを占領した旧日本軍の兵士の中に、敗戦後も現地に残り、インドネシアの独立のために戦った約1000人の日本人がいた。
しかし、その後も現地で暮らし続けた
  「残留日本兵」の子孫は、戦後78年をへたいまでも
  「侵略者の子孫」という言葉を投げかけられている。
日系インドネシア人3世の幸松リマ(34)は、110万のフォロワーを持つインフルエンサーだ。
日系であることを理由に学校でいじめを受けた傷を抱えるリマは、自らのアイデンティティーを求め、祖父の体験をたどり始めた。
そして、仲間の3世たちと共に作り上げたのが、祖父たちの埋もれた歴史を残す
  「残留日本兵 歴史資料館」だった。
リマが祖父たちの体験を探る中で、見つけたもの。
それは、自分たちの傷とインドネシア社会に残る傷を埋めていくために、先ずは対話から始めるというシンプルな答えだった。

  日系インドネシア人3世、幸松リマ(34)の葛藤
2022年8月のある日の夕刻国立英雄墓地カリバタで、祈りを捧げる女性がいた。幸松リマ(34)
インターネット上でグルメリポートなどを発信し、若者を中心に110万人のフォロワー誇るインフルエンサーだ。
祖父のウスマン幸松崇(こうまつたかし)が、オランダとの独立戦争を戦った英雄として、27人の元日本兵とともにこの墓地に眠っている
1942年1月日本軍は天然資源確保のためインドネシアに侵攻した。
当時、インドネシアを植民地としていたオランダは降伏し、代わって日本による3年半の占領が始まる。
1945年8月15日日本が降伏すると、インドネシアは2日後に独立を宣言
ところが、インドネシアを再び植民地にしようとオランダが侵攻してきた。
こうして、インドネシアの独立をかけた4年半に及ぶ戦争が始まった。
この時、1000人以上の日本兵が部隊から脱走し、オランダとの戦いに参加した。
そのうち300人以上が戦後も現地に残り、インドネシア人として生きた
その子孫は5000人とも言われている。
リマも、その1人である。
祖父崇は、リマが生まれる5年前に死去したため、リマには直接の思い出はない。
祖母や父から聞いた祖父は、生活に困っている元日本兵をよく助けていたという。
4人まで妻を持てるインドネシアで、祖父は祖母のミマ1人と添い遂げた
祖父はなぜインドネシアに残り、独立戦争に参加したのか?
戦後、どのように生きたのか?
リマは、その人生を探ろうとしていた
それは、自分のアイデンティティーを確かめるためでもあった。
インドネシアには、初対面の人に出身や民族を聞く習慣がある。
リマが日本人の子孫であると答えると、教師や生徒から
  「いつインドネシアにきたの?どうして、おじいさんは日本の墓でなく、カリバタに眠っているの?」といった質問が続く。
その後は、
  「日本人、侵略者の孫」といじめられるのだ。
そのたびに
  「おじいちゃんは、英雄としてカリバタに眠っている」と反論してきた。
しかし、自分は100%インドネシア人でなく、日本人でもなく、他のインドネシア人とは違うという孤独感を、リマはずっと抱えてきた
  インドネシア社会に残る日本占領の傷:子孫たちの葛藤
2022年8月、リマは日系人たちに会うために、南ジャカルタのテベクにある事務所に向かった。
ここは、残留日本兵が相互の連絡や困窮者の生活支援、子女の教育向上を目的に、1979年に設立した互助組織
  「福祉友の会」の事務所である。
集まっていた人たちは、自身の体験を次々に語った
4世のヨガ上田(25)大学でインターンシップをしていた
  「お前は日本人の子孫なのだから、ロームシャより働かなければいけない」と言われた。
司書の資格を持つ梅田リナ(32)は、
  「資料館の仕事をして、また侵略するのか」と聞かれたことがあるという。
インドネシアの中学、高校の歴史教科書には、
  「国民は、コメの60%を日本軍と備蓄に供出し、食べ物も薬もなく、多くの人が病気で死んだ。また、労務者として過酷な仕事をさせられた中部ジャワでは人口の53%が死亡した。日本の植民地になったことは、インドネシア人には大きな災害であった」と書かれている。 ※インドネシア政府は「大嘘の歴史・教育」をしている証! 和名を名乗る朝鮮人が牛耳る日本政府はアセアン諸国に大嘘の歴史教育を依頼した可能性がある。大和民族の裏切り者、朝鮮人村山富一総理の謝罪行脚がある!
インドネシア社会には、
  「侵略者日本軍」というイメージが定着している。
特に日本軍の要望によって募集され、鉄道や飛行場、防空壕の建設、石炭鉱山の採掘などで働かされた労務者の悲惨さ語り継がれ、日本軍の過酷な占領政策の象徴になっている。
一方、約1000人の日本兵が独立戦争に参加したという事実は、教科書に載っていない
事実として、ほとんど知られていないのだ。
  「日系人の子孫たちは、歴史の授業が終わる度に、いじめられています日本軍の負の面だけでなく、独立のために戦った祖父たち個人の歴史も知って欲しい」。
マリオ黒岩(39)が語るこの思いは、3世、4世共通のものだ
  「残留日本兵 歴史資料館」の設立準備:浮かび上がる祖父たちの苦難の人生
3世たちを中心に、祖父たちの知られざる歴史を残したいとの思いから、
  「残留日本兵の歴史資料館」をつくる計画が進められた
  「福祉友の会」の事務所の2階を資料館にして、残留兵の遺品や写真、その体験を描いたビデオを展示・上映する計画だ。
リマは、祖父の資料を探すため
  「福祉友の会」に顔を出していたが、歴史を後世に伝える大切さを感じ、プロジェクトの中心人物の一人として活動するようになった。
資料を調べていくと、祖父の素顔がだんだんとわかってくる。 
幸松嵩は、1922年福岡生まれ
早稲田大学を卒業後、20歳で召集された。
久留米士官学校などで訓練を受けた後の44年8月インドネシアスマトラ島のパレンバンに派遣され、油田地帯の防衛にあたっていた。
リマは、祖父がカバンに大切にしまっていたものを見つけた。
79年前に出征する時贈られた千人針と寄せ書きだ
千人針は、出征する兵士の無事を願って多くの女性が赤い糸の縫玉を1枚の布につけたものだ。
  「虎は千里走って千里を戻る」との言い伝えから、寅年生まれの女性が縫うと、弾が当たらないと言われていた。
嵩の母くらが駅に出かけ、干支を聞いては縫ってもらったという。
もう一つは、仲間が武運長久を祈って日の丸書いた寄せ書きだった。 
  何故脱走し、独立戦争に身を投じたのか?
日本の戦争は終わったのに、若き日本兵が軍隊を脱走し、インドネシアの独立戦争に身を投じたのは、なぜか?
それぞれの理由があった
憲兵として捕虜を虐待し、BC級裁判で死刑になる可能性があった兵士がいた
インドネシア軍や民兵が、オランダとの戦争で必要な武器を奪うために日本軍を襲撃した際拉致された兵もいた。
  「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と教育され
  「占領下の日本に帰国して奴隷のように扱われることに耐えられない」と思い、悩んだ末に脱走した24歳の兵士もいた。
23歳の幸松嵩が日本軍から脱走したのは、自らの意思だった。
リマは、残留日本兵を描いた脱走日本兵 インドネシア独立戦争の陰に』(奥源蔵著、毎日新聞社)に、祖父のインタビュー残されているのを見つけた。それによると幸松は、1946年1月に復員船で帰国することになっていた。だが、
  「日本はインドネシアを独立させると約束したが、それができなくなった。このうえは、約束を守るため、独立軍に加わり、オランダと一戦交えよう」と独立戦争に身を投じたという。祖父が自ら書いた経歴書によると、同月にパレンバンの日本軍を脱出し、バンバン・ウトヨ将軍の軍で戦ったとある。
  待っていた貧しい生活と無国籍
1949年12月インドネシアの独立が国際的に承認された。
幸松崇は翌50年10月27歳で軍隊を除隊
待っていたのは貧しい生活だった。
元日本兵たちは、国籍も、在留資格も、仕事もなく、たちまち生活に困窮する。
嵩は自動車修理工場を始め、食べるためには何でもやった
すでに独立戦争中に餅屋に勤めていたミマと結婚し、子供もできていた
リマの父である幸松たけしは、53年に生まれた4番目の子供である。
インドネシア独立後嵩の母である幸松くらが、
  「日本に帰ってきてほしい」と嵩に頼んだことがあった
しかし、返ってきた答えは、こうだった。
  「私には、インドネシアに家族がいます。日本に帰ることはできません
1958年1月日本とインドネシアの賠償協定が結ばれ、日本の商社がインドネシアに進出した。
崇は、丸紅の現地法人で鉄鋼輸出の仕事をするようになっていた。
58年8月にはスカルノ大統領から
  「インドネシア独立殊勲」の証明書と勲章が贈られ、英雄としてカリバタに埋葬される資格を得た
だが、
  「イ国籍決定書」が発行されたのは63年
国籍のない不安定な生活は、18年も続いた。
  「残留日本兵 歴史資料館」のオープンとリマの変化
インドネシアの日系3世たちは、残留日本兵の家族に連絡をとり、話を聞き、遺品や手記を集め、足跡を追った
十分な資料を残していない家族戦争体験が2世に十分に伝わっていない家族連絡が取れない家族もあった。
リマは日本語が読めないため、日本人サポーターの力も借りた
母の介護をしているリマは、睡眠時間を削ってこうした作業にあてた。
2023年7月10日残留日本兵の歴史資料館がオープンした。
元兵士たちの写真遺品の軍服英雄勲章日本刀が展示された。
また、兵士たちが毎月手書きで残していた
  「福祉友の会月報の抜粋集をインドネシア語に翻訳し、HPに掲載した。
祖父らのことが書かれた書籍も展示された。
5日後に祝賀会が開かれ、和服姿のリマは、受付などで忙しく働いていた
日本政府から金杉憲治駐インドネシア大使ASEAN日本政府代表部紀谷昌彦大使も出席。
来賓は2世を含め200人以上に上った。
久しぶりに顔を合わせた日系インドネシア人たちは、笑顔にあふれ、資料館ができたことを喜んでいた
リマは、インドネシア人に資料館を積極的に宣伝しようとは、考えていない。
  「日本兵の子孫が独立戦争に貢献したとインドネシア人に話しても、事実ではあっても過酷な日本軍の占領を弁護している、自己防衛と言われるかもしれない中立的な立場で、歴史家が、歴史の事実として伝えたほうがいい」と思っているからだ。一方で、インドネシア人にも知ってもらいたいという葛藤もある。
祖父の人生をたどり、資料館の設立に携わる中で、リマに変化が起きていた。
祖父の人生を自分で確かめたことで、
  「おとぎ話の中にいたようだった祖父の存在が、確かなもの、現実のもの」としてリマの中に浮かびあがってきたのだ。
  「祖父を誇りに思う気持ちが強くなった」とリマは言う。
それが自信になったのかも知れない
リマは、祖父が独立戦争で戦ったことを、親しい友人たちに自分から話すようになった
すると、こんな反応が返ってくるようになった
  「インドネシアの独立を助けてくれたんだ。そういう日本人がいたことを初めて知った。ありがとう」
まずは身の回りの人たちに話すことで、リマは1歩を踏み出した
祖父たちの歴史を、多くのインドネシア人にどう伝えていくか。
次なる歩みがこの先にある。
  クレジット
監督・撮影・編集:小西 晴子 ※顔相・職業・小西晴子は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!
プロデューサー: 高橋樹里 ※顔確認できず、職業・高橋樹里は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!
制作: ドキュメンタリーアイズ
  【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】


  X 私の投稿
和名を名乗る朝鮮人が牛耳る日本政府の大きな過ち!
インドネシアは日本の裏切り国家・独立出来た理由を歪曲? 
せっせと貢いだ和名を名乗る朝鮮人の政治家と日本企業とは名ばかりの朝鮮人企業!
日系インドネシア人・幸松マリ(34)さんにお願い!
是非、DNA検査をして、結果を教えてください、最重要
顔相・職業・小西晴子は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!
顔相・確認できず、職業・高橋樹里は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!
和名を名乗る朝鮮人が牛耳る明治政府「恐怖政治」→日清戦争→日露戦争→日米戦争(太平洋戦争)は皆、大和民族(日本人)殲滅作戦!
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を仕掛けた和名を名乗る朝鮮人スパイ顔相・体形・山本五十六と共産主義者の和名を名乗る朝鮮人近衛文麿が仕掛けた敗戦革命→二人は自殺!
和名を名乗る朝鮮人が牛耳る日本は嘘とまやかしで成り立つ非常に危険な多民族国家!
大和民族
の日本人と日本に暮らす外国人、世界の国々人々は今も、和名を名乗る朝鮮人が牛耳る日本政府(政官)に騙され続けており、被害者は既に、多く存在する
2023・8・12 宮崎隆 毎日新聞 宮崎隆よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し記事を書け!
「自分は兵器そのもの」 “人間魚雷”だった100歳がこぼした涙 
「記事内容」
太平洋戦争末期の1944年10月、劣勢に陥っていた日本軍は、敵の軍艦に体当たりする特別攻撃   「特攻」に打って出た。 爆弾を抱えて戦闘機に乗り込み、命を落とした兵士は約4000人とされる。 出撃すれば生きて帰ることのできない作戦は、   「」だけではなく、   「」でも命じられていた。

  【写真】「棺おけ」と言われた人間魚雷

  ◇「これは貴様らの棺おけだ」 44年末、瀬戸内海に面した山口県光市の海軍基地。 30人ほどの若者が、基地内の整備工場に集められた。 当時21歳で、現在は京都市に暮らす瀬川清さん(100)もいた。※瀬川清よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明しものを言え! 工場内に置かれた大きな台の上に、全長15メートル、幅1メートルほどの筒型の鉄の塊があった。 上官である大尉の放った言葉に、震えた。   「これは貴様らの棺おけだ」 上部のハッチを開けると、1人しか座れない狭い操縦席に、計器が所狭しと並んでいる。 後部にはプロペラが付いていた。 艦艇から放たれる魚雷に人間が乗り込む   「回天」だった。 兵力不足を学生で補うために43年から始まった   「学徒出陣」で慶応大から徴兵された瀬川さんは、望んで特攻隊員になったのではない。 回天と対面する少し前、上官に   「特殊兵器ができた。君たちは全員志願するだろうから、こちらで選ばせてもらう」とも一方的に告げられた。 訓練からすでに死と隣り合わせだった。 薄暗い艇内で操縦かんを握りしめ、海中を進む。 少しでも操作を誤れば海底の岩に挟まり、浮上できなくなるかもしれないと思った。 訓練中の事故で亡くなった隊員もいた。 遺体を見ても平静を装ったが、トイレでは涙をこらえられなかった。 ある時、米軍の飛行機が目の前の海に墜落するのを見た。 投げ出された搭乗員の上空を、米軍の僚機が旋回していた。   「自分たちは兵器そのものなのに、敵は兵士1人を助けようとしている。そんな国に勝てるはずがない」。 力が抜けた。 瀬川さんに出撃命令が出ることはなかった。   ◇脱出装置の有無、暗号で伝達 瀬川さんの1学年上で、同じ光基地で過ごした人がいる。 和田稔さん。 ※和田稔の祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ! 東京大学から学徒出陣し、回天の隊員になった。 同じく隊員だった神津直次さん(故人)が、著書   「人間魚雷回天」(朝日ソノラマ)に、和田さんとのあるやり取りを残している。 44年末、回天隊員の中でも先に配属された   「先発隊」として一足先に光基地へ着いた和田さんは、   「後発隊」として長崎県の訓練所で待機中だった神津さんたちに一通のハガキを送った。 先発隊が回天の実物を見たら、後発隊に   「脱出装置があるか否か」を暗号を使って伝えることになっていたからだ。 暗号は   「脱出可能」なら   「武田ニヨロシク」、   「脱出不能」なら   「工藤ニヨロシク」、   「不明」なら   「和田の歯ナホラズ」と決められていた。 そして受け取ったハガキは、   「工藤ニヨロシク」だった――。   <もう半分あきらめていたから表面は変化はなかった。内面は各自複雑な思いのはずだが>   <われわれは回天が自爆兵器かどうかを知らなかった。たぶん、そうではあるまいかと思っても、まだ一縷(いちる)の望みは捨てていなかった> 当時の心境を、神津さんはそうつづった。 記者は、和田さんの義理の妹のみつさん(90)=神奈川県鎌倉市=にハガキのことを伝えた。   「死ぬ覚悟はできていたんだろうと今まで思ってきたけど、暗号まで使って脱出装置があるかどうかをやり取りしていたなんて……。本当はどんな胸中だったんでしょうね」と思いをはせた。 和田さんは終戦3週間前の45年7月25日、光基地から訓練に出たまま行方不明になった。 およそ2カ月後、海底に沈んでいた船が浮上して操縦席から遺体が発見された時、既に戦争は終わっていた 23歳の若さだった。 回天の訓練を受けたのは光基地など4基地にいた計1375人。 神津さんは出撃しないまま終戦を迎えたが、延べ153人が西太平洋のパラオ諸島などに出撃した。 訓練中の事故死なども含めると106人が犠牲になった。
和名を名乗る朝鮮人が捏造した嘘とまやかしで成り立つ日本!
大和民族殲滅作戦+敗戦革命・日米戦は共産主義者の和名を名乗る朝鮮人、自殺した二人の裏切り者「近衛文麿」と米のスパイ「山本五十六(海軍)」→真珠湾攻撃→勝機失った大日本帝国!
「帝国陸軍」と「帝国海軍」の美談の数でも分かる!
顔相・松井一美
は明らかに朝鮮人、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明しものを言え!
2023・8・6 中国新聞
「核抑止論からの脱却を」平和宣言で広島市長訴え 被爆78年 原爆の日 
「記事内容」
広島の街に米軍が原爆を投下して78年となった6日、広島市は平和記念公園(中区)で原爆死没者慰霊式平和祈念式(平和記念式典)を営んだ 松井一実市長は平和宣言で、各国の為政者に対し、   「核による威嚇を直ちに停止し、信頼関係に基づく安全保障体制の構築へ一歩を」と強く求めた。

  【写真特集】2023広島原爆の日

5月の先進7カ国首脳会議(G7サミット)後では初めて迎える原爆の日。 各地の被爆者遺族、岸田文雄首相、海外代表たちが参列した。 平和宣言では、サミットの核軍縮文書   「広島ビジョン」に触れ   「全ての者にとっての安全が損なわれない形での核兵器のない世界」の実現や核抑止の堅持に触れた文言を紹介。 その上で   「しかし、核による威嚇を行う為政者がいる現実を踏まえるならば、世界中の指導者は、核抑止論は破綻していると直視し、具体的な取り組みを早急に始める必要がある」として、市民が核抑止論からの脱却を促す重要性を訴えた。
ロシアによるウクライナ侵攻などを踏まえ、非暴力・不服従を掲げたインドのマハトマ・ガンジーの   「非暴力は人間に与えられた最大の武器」との言葉を引用。 あらゆる暴力を否定する   「平和文化」を世界に根付かせる取り組みも促す。 式典は午前8時に始まり、この一年に死亡が確認された広島の被爆者5320人を書き足した原爆死没者名簿を松井市長と遺族代表2人が原爆慰霊碑に奉納した。 名簿は   「氏名不詳者 多数」と記した1冊を含め125冊計33万9227人分になった。 原爆投下時刻の8時15分に遺族代表の主婦角田礼奈さん(41)=南区=とこども代表の戸坂城山小6年田中湊都(みなと)さん(12)=東区=が ※角田礼奈と田中湊都の曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!    「平和の鐘」を突き、全員で黙とうした。 新型コロナウイルスの感染症法上の扱いが   「5類」に移行したのを受け、市は参列席を昨年の2倍の約7千席に増やした。 厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ人は3月末時点で11万3649人平均年齢は85・01歳となっている。
問題は故・小野田寛郎氏が日本人?or和名を名乗る朝鮮人?
2022・7・24 一年前 世界が称賛する日本
小野田寛郎氏が語った日本が大戦を始めた真実 総集編 
「コメント」
1974(昭和49)年3月12日、元日本陸軍兵の小野田寛郎氏がフィリピンから29年ぶりに日本に帰還しました。 帰国後、日本が大戦を始めた真実について語られたいます。 本日は小野田寛郎氏のお言葉、他開戦に至った経緯を総集編としてお伝えします。
大嘘の明治維新・戦前戦中戦後と多くの朝鮮人が・・・
大和民族が主導していれば、ドイツと同盟は結ばず、日米戦は回避?
2021・11・7 神奈川新聞
ドイツ軍艦爆発事故79年 在日ドイツ大使館が墓前祭継承 根岸外国人墓地に100人参列 
「記事内容」
第2次大戦中の1942年、横浜港で起きたドイツ軍艦爆発事故の墓前祭が6日、根岸外国人墓地(横浜市中区)で営まれ、日独の計約100人が犠牲者を悼んだ。 地域住民や児童生徒らが約40年前から墓地の清掃や慰霊を続けてきたが世話人が高齢となり、今年から在日ドイツ大使館が主催し、歴史を後世に伝える。 墓前祭は例年、横浜山手ライオンズクラブや地域住民をはじめ、墓地に近接する市立立野小学校と市立仲尾台中学校の児童生徒らが参加し、大使館武官を招いて開かれてきた。 運営を継いだ大使館はこの日、東京横浜独逸学園(同市都筑区)の生徒を招待、東京港に5日寄港したドイツ海軍のフリゲート艦   「バイエルン」の乗組員らも出席した。 慰霊碑を前に、ゲッツェ駐日大使は子どもたちによる長年の清掃活動に感謝し、   「若い人たちが犠牲者を思うことで未来を考えることができる」とあいさつ。 ドイツ連邦軍のツォルン総監は   「命を落とした水兵や日本国民は悲惨な戦争の犠牲者であり、ドイツ独裁主義の被害者。平和は当たり前のものでなく日々守っていかなければならない尊いものだ」と語った。 事故当時15歳だった森利子さん(93)は山手の横浜共立学園で授業中、爆発の衝撃で窓ガラスが割れて破片を頭から浴びたという。 東京横浜独逸学園の生徒らに   「あんな経験はもう二度としたくない」と語り、平和の尊さをかみしめた。 事故は42年11月30日に発生。 横浜港・新港ふ頭でドイツ軍艦3隻と日本の貨物船1隻の計4隻が爆発炎上し、ドイツ人や中国人、日本人ら計102人が亡くなった。
朝鮮半島から引き上げ!
2021・9・26 南日本新聞
北朝鮮からの引き揚げが始まった。女性と子どもばかりの一行は徒歩で進む。村落には関門。腕時計など“貢ぎ物”を差し出し通してもらった〈証言 語り継ぐ戦争〉 
「記事内容」
  ■山本幸子さん(96)鹿児島市東坂元1丁目

  【写真】山本(旧姓太田)幸子さんがリュックに詰めて朝鮮半島から持ち帰った新義州高等女学校の卒業証書

1945(昭和20)年8月の終戦直後、北緯38度で朝鮮半島が分断され、韓国側に次女を迎えに行った両親は北朝鮮側に戻れなくなった。
当時20歳。
三つ下の妹と中学1年の弟の3人で、半島北西部の水豊に取り残された。
自分の国ではない場所で、どうなるのか分からない不安。
日の丸の国旗は庭に塩をまいて焼いた。
翌春、鴨緑江水力発電の社宅から朝鮮人労働者用だった長屋に移され、引き揚げ準備をしながら待った。
必要最小限しか持ち帰れないので、ラジオや柱時計などを金に換えた。
親に買ってもらった文学全集を手放すのが一番惜しかった。
役立ったのが母の着物だった。
ソ連の将校に売って食べ物に代えたり、解いて掛け物に縫い直したりした。
近所の親切な朝鮮人女性がチマ・チョゴリもこしらえてくれた。
帯の芯はリュックサックに。
3人分作り、米や缶詰、着替えのほか、卒業証書や弟の在学証明書を詰めた。
引き揚げ決定の通知が届いたのは8月30日。
待ち望んでいたのに、いざとなると不安や寂しさなど複雑な気持ちが募った。
幼い頃から暮らした朝鮮各地の思い出もよみがえった。
高等女学校時代の修学旅行は内地で、2週間かけて熊本や京都、東京などを巡った。
当時の日本は外地に比べて粗末な校舎が多く、がっかりした。
各地で撮影したジャンパースカート姿の集合写真をたまに見返す。
出発の朝は梅干し入りのおにぎりをたくさん握った。
会社が用意したバスで平安北道と平安南道の境まで南下し、そこからは徒歩。
幼児から足の弱い老婦人まで女性や子ども中心の一行だった。
団長は朝鮮語が堪能な元警察官で頼りになった。
山中で野宿しながら、みんなで助け合って進んだ。
道中、大雨に降られ、膝までつかる川を渡った。
各村落の入り口には関門があり、団長が名簿を出すと人数を調べられ、許可されると通過できるという繰り返し。
そのたびに、それぞれ持っていた腕時計などの“貢ぎ物”を差し出し、卑屈で嫌な気分になった。
旧満州から脱走した日本兵3人に同行を懇願されたことも。
農村の田舎道が自然と逃避行ルートになっていて、避難民目当ての物売りもいた。
約15日かけて開城近くへ。
  「今夜、38度線を越えます」との説明があり、日暮れを待った。
ソ連兵が出てこないよう祈りながら小高い山を登った。
途中、貯金通帳や保険証書、写真などが散乱していた。
捕らえられ没収されたのか、捨てられたのか。
一段と緊張が高まった。
ようやく頂上にたどり着くと、木々の間から眼下に明かりが見えた。
うれしかった。
暗い山道を下った先には米軍のテントがずらりと並んでいた。
程なく南部の釜山へ。
港には大勢の日本人。
満州の団体が多く、服装から長い放浪生活がうかがえた。
ソ連兵から身を守るためか、丸刈りにした男装の女性たちもいた。

柳条湖事件はシナ共産党に関係なし!
シナ人と朝鮮人は大嘘吐き!
2021・9・18 北京共同
中国、柳条湖事件90年で式典 最高指導部メンバーも出席 
「記事内容」
満州事変の発端となった柳条湖事件から90年の18日、事件が起きた中国遼寧省瀋陽で記念式典が開かれ、共産党最高指導部メンバーで序列6位の趙楽際・党政治局常務委員が出席した。 国営メディアは抗日戦争を戦った党の功績を強調。 米国や日本との関係が改善しない中、党の指導下で団結するよう呼び掛けた。 式典は毎年開いているが、ここ数年は最高指導部メンバーの出席が伝えられていなかった。 90年の節目に当たるほか、習近平国家主席の訪日計画が棚上げになり対日関係に配慮する必要がなくなったことも要因とみられる。

 ※習近平が日本の土を踏む機会は永遠に訪れぬ!
日本国と大和民族を嫌う多くの和名を名乗る朝鮮人が潜む戦後の日本政府は旧皇民を切り捨てた!
彼等を引き揚げさせることはあるまい!
2021・8・11 ライター・大友麻子 弁護士ドットコムニュース 大友麻子よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明かし記事を書け!
もう時間がない、フィリピン残留日本人の国籍回復問題 戦争が狂わせた人生、政府はどう向き合うか 
「記事内容」
  「足の上に物を落とされてね、うっかり『イタイ!』なんて日本語を口にしたら殺された。だから母の部族の刺青を腕に入れて、フィリピン人のふりをして生き延びてきた」 かつて、そう話してくれたのは、フィリピン南端のミンダナオ島ダバオ郊外に住む高森義鷹さんだった。 1931年生まれの高森さんは、戦前にフィリピンに移住した広島出身の父と、ミンダナオの山岳民族であるタガバワ族の母を持つ。 当時、米軍の統治下にあったフィリピンは、太平洋戦争における日米の激しい地上戦に巻き込まれた。 フィリピン戦線での日本人の戦没者は軍民あわせて51万8000人だが、フィリピン人はその2倍を上回る110万人もの犠牲者を出したといわれる。 戦後、高森さんのように日本人の父を持つ子どもたちが多数、反日感情の渦巻くフィリピンに取り残されたことは、あまり知られていない。 冒頭の高森さんの言葉は、残留した子どもたちの過酷な戦後を物語る。 日本国籍の回復を果たせないまま他界した者も少なくないが、今も700名以上もの残留者たちが日本政府から   「日本人」と認められる日を心待ちにしながら、残り時間の少なくなった人生を生きている。 戦後76年目の夏を迎えたが、彼らの戦争はまだ終わっていないのだ。
  ●東南アジア最大の日本人社会、戦争で一変
  ●日本憎悪が渦巻くフィリピンに取り残された2世たち
  ●2世たちの国籍回復を阻む日本の高い壁
  ●国会で読み上げられた父の遺書
  ●残留者が日本国籍にこだわる複雑な胸中
  ●日本政府は責任を果たせるか 残された時間は少ない
前略   「フィリピン政府は、フィリピン残留者問題は深刻な人権問題だと認識しており、司法省と外務省が積極的に実態の把握と問題解決のために動いています。日本側も外務省が長年、我々と一緒に全国調査を継続してきましたが、この調査がさらに拡充される流れとともに、二国間での調整が進みつつあります。これまでの調査データをもとに残留者名簿を作成し、両国で足並みをそろえて動く時がきたと感じています。残留者たちの置かれた状況は様々です。就籍という方法が難しい残留者も含めて一括で国籍取得を実現するには、最終的には日本における特措法が不可欠となってくるでしょう。だからこそ立法府の議員の皆さんとの連携が重要なのです。年々、生存者が減っている状況で、残された時間は少ない。日本政府が責任を果たせる最後のチャンスと言えるでしょう。UNHCRが問題提起してくれた今年が、一つの正念場になるのではないでしょうか」 筆者に多くを語ってくれた義鷹さんや明さんもすでにこの世にいない。 日本政府の返答を辛抱強く待ち続けてきたフィリピン残留者たちの長い戦後を思う。 まもなく76年目の夏が終わろうとしている。
林千勝よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を公開しろ!
大東亜戦争を語る!
2021・8・6 SakuraSoTV
【これが本当の近現代史】裏切り者は内部にいる! 
「コメント」
近現代史研究家 林千勝がシリーズで熱く語る! 第5回は「秋丸機関の光と影」について。 共産主義者・有沢広巳が果たした役割とは?
ソ連と米、日本の共産主義者の罠に嵌った大日本帝国!
現在も日本国内に潜む共産主義者が蠢いており、日本国と大和民族に有史以来、初の危機を齎している!
2021・6・16 Number Web
【幻の東京五輪】中国が抗議「戦争を仕掛ける日本に五輪開催地の価値はない」、IOC会長は何と答えた?
「記事内容」
1940年の“幻の東京五輪”。 開催の2年前に返上された、そのウラ側をあらためて検証する。   (全3回の3回目/#1、#2へ   【写真】幻の東京五輪、“消えた”メイン競技場の予想図&幻のロゴ、中止を決断させた男、代替大会の様子など貴重な写真を見る

  「(東京五輪で)2億円の観光収入があがる」
1940年大会で消極的だったのは政府だけでなく、じつは日本のアマチュアスポーツを統轄する体協もまた、東京市がオリンピック招致を提唱した当初は日本での開催は時期尚早として反対していた。 開催が決まってからも競技場建設地の選定など、ことあるごとに東京市と体協は対立し、確執は深まるばかりだった。 組織委員会内でも、体協は開催準備が官僚や東京市の職員に牛耳られるのを嫌悪していると見なされ、それは   「競技人のみの世界観から来るスポーツ・セクト主義に支配されているため」と批判されたりもした(『改造』1937年5月号)。オリンピック返上の主因となった競技場の整備の遅れも、元はといえば、   「紀元2600年記念」として開催したいとの意欲が先行するあまり、日本国内で各競技がどれだけ普及しているかなどスポーツ界の状況が考慮されなかったことに端を発するように思われてならない。 先にあげた体協に対する   「スポーツ・セクト主義に支配されている」との批判は、東京日日新聞(現・毎日新聞)出身のスポーツ評論家北沢清の   「オリンピック経済学」という記事に出てくる。 同記事ではその題名が示すとおり、オリンピック開催による経済効果が分析されていた。 そこには、   《東京オリンピックを機会に、日本に落ちる金を予想して、観光局では少くとも7、8万人以上の外客誘致を計画しているが、計画の通りに実現すれば、オリンピックのために2億円前後の観光収入があがることになる》との試算も示されていた(原文は旧仮名遣い・旧字体・漢数字)。 観光局とは、1930年に鉄道省(現・国土交通省)に設置された国際観光局を指す。 1940年の東京五輪は、昭和初期の金融恐慌で打撃を受けた日本経済の再建のため、外国人観光客の誘致による外貨獲得の切り札とも目されていたのだ。 これなど、2020年大会を機にインバウンド需要が期待されていたことと共通しよう。
  大会返上を迫った副島は「裏切り者」
気になるのは、1940年大会の開催が日中戦争で危ぶまれるなか、一般の人々はオリンピックをどう捉えていたのかということだ。 この時代にはまだ世論調査というものはなく、その点はなかなか把握しにくい。 そのなかにあって、戦前の文藝春秋社発行の『話』という雑誌では、東京五輪は予定どおり開催されるべきかどうか読者にアンケートを行っている(1937年11月号)。 戦争がまだ始まったばかりで、早期に終結するとの楽観的なムードもあったせいか、アンケート結果には思いのほか開催に対し賛成意見が目立つ。 ただ、その大半が   《国民の精神動員に、千の講演会よりも明治神宮に高く上ったメインポールの一本の日章旗の感激の方が遥かに有意義だ》(滋賀・官吏)というような国威発揚に期待する声であった。 こうしたスポーツの精神からはかけ離れた目的が先行する状況を誰よりも憂えたのが、IOC委員の副島道正だった。 招致段階においてイタリアのムッソリーニからローマの立候補辞退を引き出すなど東京五輪の実現に尽力した副島が、最終的に自らの手で政府に返上を迫らざるをえなかったのは、オリンピックの理念を遵守しなければならないという思いからであった。 大会返上を決議した組織委員会の緊急総会では、副島の両隣には誰も座る者がいなかったという。 委員たちはみな、彼を裏切者とみなしたのだ。 このあと、副島はIOC委員を辞任する意思を示し、会長のラトゥールに電報を送った。 だが、先方からは   「あなたは自国およびIOCにとって正しいことをしたのに、なぜ辞任しなければならないのか」と、留任を促す書簡が返ってくる。 IOC執行委員会でも、副島の行動は   「オリンピック理念ならびに自国に対するすばらしい行動」と評され、辞任は認められなかった。
  中国のIOC委員「日本に開催地の価値はない」
戦争に突き進んでいた日本にあって、オリンピックの理念を深く理解し、それを守るため自らの立場も顧みず行動した人物がいたことは特筆されるべきだろう。もっとも、だからといってオリンピックが「純粋なスポーツ」の大会なのかというと、けっしてそうは言い切れない。 社会主義者の山川均は、1940年五輪の東京開催の決定を受けて発表した   「国際スポーツの明朗と不明朗」と題する論考のなかで、スポーツは   《人間精力の純粋な浪費であり、その追求する目的が何にもならぬという意味で完全に無価値なところ》にこそ価値があるとし、それゆえに   《人生にしろ社会にしろ天下国家にしろ、それらのものにとって如何に重要であり有益であり有意義であろうとも、いやしくもそういうものの考慮がひとたび入ってくると、スポーツはその瞬間から単なるスポーツではなくなってしまう。(中略)そういう意図や考慮や意義――他の見地からはそれがいかに高貴なものであろうとも――が入ってきた瞬間に、スポーツの純粋性または純真性は失われたことになる》と喝破した(『文藝春秋』1936年9月号)。 山川の言に従うなら、オリンピックは平和の祭典として始まった時点で   「純粋なスポーツ」の大会ではなかったことになる。 もちろん、IOCは現在にいたるまで、スポーツ界やオリンピック大会の独立性を堅持することに努力を払ってきた。 だからこそ開催国の政府が推進する政策や政治的な諸問題には干渉を避けた。 IOCが開催国に警告を発するのは、政策や政治的問題が大会の準備や開催に干渉・介入したり、オリンピックの規則を蹂躙する場合にほぼ限られきた。 1938年3月のIOCカイロ総会では、会長のラトゥールが委員の嘉納治五郎に対し、   「大会開催までに中国との戦争が終結していなければ、IOCはもちろん日本自身のためにも大会の開催を断念したほうがよい」とかなり踏み込んだ勧告を行ったが、これとても、戦争のため東京五輪の準備・開催に支障が出るのを危惧したからにすぎない。 IOCは日本政府の政策自体にはあくまで干渉を避けた。 そのことは、同じ総会で中国のIOC委員・王正延が   「平和な隣人に対して侵略的な戦争を仕掛けようとする国にオリンピックの開催地としての価値はない」として開催地を東京から変更するよう提案したのに対し、会長のラトゥールは、オリンピック憲章中にこのような提案を容認する条項はないと退けたことからもあきらかだ。 こうした姿勢は、現在のIOCにも頑ななまでに貫かれている。 新型コロナウイルスの感染拡大が収まらず、中止を望む声が強まるなかで東京五輪の実施に突き進むのも、開催に干渉されるのを何より嫌うIOCの姿勢がうかがえる。 しかし、それはオリンピックをスポーツの純粋性からさらに乖離させることになりはしないだろうか。 1940年の東京五輪が返上されるにいたった背景には、単に戦時下の日本の特殊な事情ばかりでなく、ここまで指摘してきたように、IOCの態度も含めて現在にも通じることが少なくない。 今回のオリンピックはこのままいけば開催される可能性が濃厚だが、今後の大会のあり方やスポーツの本来の意義を考える上でも、いま一度、戦前の幻の東京五輪について省みる必要があるのではないだろうか。   【初回を読む】 81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった   「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」 へ
大東亜戦争の勝利者はソ連!当時、日米共に赤く染まっていた、今もである!
共産主義に汚染された米軍将校の仕業!
2021・6・7 共同通信 共同が報じる記事に非ず!
A級戦犯7人、太平洋に散骨 米軍将校「私がまいた」 
「記事内容」
第2次大戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた東条英機元首相らA級戦犯7人の遺骨について、米軍将校が   「太平洋の上空から私がまいた」と記した公文書が、6日までに見つかった。 米軍による具体的なA級戦犯の遺骨処理の方法が公文書で判明するのは初。 遺骨は遺族に返還されず、太平洋や東京湾にまかれたとの臆測はあったが、行方は昭和史の謎だった。 文書は、占領期に横浜市に司令部を置いた米第8軍が作成。 日本大生産工学部の高澤弘明専任講師(法学)が米国立公文書館で入手した。 詳細が記載されていたのは、7人が処刑された1948年12月23日付など2種類の極秘文書。
6年も放置!
朝鮮人とシナ人に税金を垂れ流す異質な日本政府(朝鮮人が潜む)、良くやるよ!
2021・4・23 南日本新聞
「九七艦攻」引き揚げへ 種子島沖に沈没の旧海軍機 遺骨も調査 
「記事内容」
種子島北端の喜志鹿(きしが)崎沖(西之表市国上)に沈む旧日本海軍の九七式艦上攻撃機(九七艦攻)について、日本戦没者遺骨収集推進協会が6月下旬にも、遺骨収集に向けた調査に入ることが22日、分かった。
関係者によると、遺骨の有無を調べ、沈没機とともに引き揚げることを想定している。
政府が国内の
  「海没遺骨」収集に本格的に取り組むのは初めてとみられる。 
※国家統治の正統性を求め大日本帝国と英霊、先人を裏切り、貶め、悪者に仕立て上げた和名を名乗る朝鮮人が潜む戦後の日本政府(政官財)、遺骨収集が進まない理由は単純に遺骨収集をしたく無いだけである。アメリカは過去、朝鮮半島の遺骨収集を日米共同で実施しようと日本政府に申し入れたが、日本政府は簡単に拒否した過去がある。

  【写真】串良航空基地からの特攻の主力機だった九七式艦上攻撃機(ウィキペディアから転載)

遺骨収集2016年4月施行の戦没者遺骨収集推進法で国の責務と定められ、事業を担う同協会が設立された。
海に沈む遺骨はこれまで費用面などから
  「水葬」を原則としていたが、政府は昨年末に方針を転換。
収集可能な場合は引き揚げることにしていた。
現場は喜志鹿崎の北数百メートル沖の水深20メートル。
3人乗りの機体が砂地に裏返った状態で沈み、両主翼や尾翼が失われ、操縦席は完全に砂に埋まっている。
遺骨の有無は不明。
これまでの調査で、操縦桿(かん)の製造番号票などから大分県宇佐市にあった練習航空隊の機体と判明している。
一帯は潮流が激しいため、流れが比較的落ち着く6月のうちに調査・収集方法を決め、引き揚げまで行う方針。
機体の一部を引き揚げたり、海中で宙づりにしたりする方法を想定する。
23日にも同協会が一般競争入札で業者を公募する。
機体は西之表市のダイビングショップ経営、林哲郎さん(73)約15年かけて独自に捜索し、15年秋に発見した。
19年7月に厚生労働省から委託を受けた協会が調査を続けていた。 ※敗戦利権を貪る戦後の日本政府は遺骨を無視するな、大和民族の裏切者!
九七式艦上攻撃機 1937(昭和12)年に日本海軍に採用された航空母艦搭載用の3人乗り攻撃機。
41年12月8日の米ハワイ・真珠湾攻撃の主力を担った。
太平洋戦争末期には旧式化し、45年4月から始まった沖縄航空作戦では、串良航空基地(鹿屋市)から出撃した特攻隊に多数使用された。 ※事実は大東亜戦争日米戦である、南日本新聞よ、事実を曲げるな!
同基地を拠点とした通常攻撃の夜間雷撃隊でも使われた。
 
大日本帝国と英霊、先人、今を生きる旧皇民(大和民族の日本人と台湾人)を裏切った和名を名乗る朝鮮人が潜む戦後の日本政府!
帝国海軍兵は皆、騙されて死んでいったが、報われまい、戦後の日本政府は都合よく多くの嘘を捏造!
2021・4・14 (1/6ページ) 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家) 現代ビジネス 神立 尚紀よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明かし記事を書け!
最大の激戦を生き抜いた「ラバウル海軍航空隊」搭乗員たちのその後  
「記事抜粋」
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4月12日に発売された『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、
  「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで
  「紙の本」として再構成したものである。
そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。
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  【画像ギャラリー】激戦「ルンガ沖海戦」を生き抜いた男たち
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第5回は、第三章
  「『皆、泣きながら戦っていた』戦死率が特攻を上回るソロモンの航空戦」に関連して、記事の舞台となった昭和18年6月16日の
  「ルンガ沖航空戦」に参加した搭乗員たちのその後について記してみたい。
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  参加搭乗員のうち約8割が終戦までに戦死・殉職
太平洋戦争の開戦から1年半が経過した昭和18(1943)年6月。  
※太平洋戦争と記すな、正しくは大東亜戦争アメリカ戦である、大日本帝国と英霊、先人を侮辱するな、愚か者! 山本五十六は共産主義者のスパイ!
南太平洋で苦戦を重ねた日本海軍は、ニューブリテン島ラバウルとその周辺の基地に展開する航空兵力の全力をもってソロモン諸島・ガダルカナル島の敵航空兵力を撃滅し、連合軍の反攻を封じようと、
  「六〇三作戦」と名づけた総攻撃をかけた。
  「六〇三作戦」は、まず戦闘機(零戦)隊をもってガダルカナルの敵戦闘機を叩き(「ソ」作戦)、その上で戦闘機、艦上爆撃機(九九艦爆)が協同で攻撃を行う(「セ」作戦)ことになっていた。
これら航空総攻撃の顛末は、
  「『皆、泣きながら戦っていた』戦死率が特攻を上回るソロモンの航空戦」を参照いただきたい。
この作戦で、形勢逆転を狙った日本側の意図もむなしく、零戦隊は、名指揮官と謳われた第二〇四海軍航空隊(二〇四空)飛行隊長・宮野善治郎大尉をはじめ多くの熟練パイロットを失い、艦爆隊もほとんど全滅にひとしい損害を被って、ソロモンの制空権は完全に連合軍に握られる結果となってしまった。
  「ルンガ沖航空戦」と呼ばれる6月16日の戦いを境に、零戦隊がガダルカナル島上空へ進攻することは不可能となり、それからのソロモン航空戦は、攻勢に出る敵を必死で食い止めようとする、防戦一方の凄惨な戦いとなった。
  「ルンガ沖航空戦」に参加した70名の零戦搭乗員のうち、その日の空戦で戦死したのが15名。
残る55名も、46名がその後、2年におよぶ激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは9名しかいない。
その数少ない生還者のうち、筆者が直接会ってインタビューできたのは、総指揮官だった進藤三郎少佐、渡辺秀夫上飛曹、中村佳雄二飛曹の3名である。
それに、当日、出撃メンバーに入っていながら、負傷のため居残りを命じられた大原亮治二飛曹。
――ここでは、彼らのその後の戦いについて述べたい。
  「ルンガ沖航空戦」で大敗を喫したあと、相次ぐ戦闘での消耗に補給が追いつかず、昭和18年6月30日の時点で、ラバウルとその周辺の基地に配備された日本側航空兵力は、零戦約70機をふくめ120数機に過ぎない。
航空隊には飛行機の定数があるが、それを満たしている部隊は一つもないありさまだった。
いっぽう、連合軍兵力は、ガダルカナル島に3本の戦闘機滑走路と、より大きな爆撃機基地が整備され、米陸海軍および海兵隊、それにニュージーランド空軍の各種飛行機300機以上が展開していた。
勢いに乗る米軍は、6月16日、ラジオ放送でノックス海軍長官が、
  〈米海軍近ク大攻勢ニ出デム。此攻勢ハ相当大規模ナルコトヲ言明〉
(『高松宮日記』第六巻)した通り、一大攻勢に転じてきた。
まずは、ガダルカナル島に近いニュージョージア島ムンダの日本軍基地を攻略目標に、6月30日、その対岸のレンドバ島に上陸を開始。
日本側は持てる全力をもって、のべ4回にわたってレンドバ島の米軍を攻撃するが、またしても大きな損失を出し、さらに多くの歴戦の搭乗員を失った。
  「ルンガ沖航空戦」の凄絶な戦いの模様を、
  〈泣きながら、皆泣きながら戦っていた〉と綴った第二五一海軍航空隊(二五一空)分隊長・大野竹好中尉もレンドバ島上空で戦死し、大野中尉がラバウルに進出以来、折に触れ書いていた手記は未完に終わった。
  飛行隊の指揮を執った下士官搭乗員
  落下傘で脱出後、海上を30時間漂流
  まさに矢折れ刀尽き、二〇四空解隊
  歴戦の搭乗員は、終戦時まだ22歳
  好きで人を殺したわけじゃない
中村に先立って、昭和18年11月に内地に還った大正谷宗市、坂野隆雄、大原亮治の3人の搭乗員のうち、坂野上飛曹は昭和19年6月24日、硫黄島上空の空戦で戦死、大正谷上飛曹は同年11月24日、厚木基地で事故のため殉職。
大原一人がその後の本土上空の防空戦を生き抜き、B-29をはじめ数機の敵機を撃墜して、横須賀基地で終戦を迎えた。  大原は戦後、海上自衛隊に入り、教官を教える
  「スタンダード・パイロット」として、また退官後は航空振興財団に入り、民間航空会社各社のシミュレーター教官として、後進を育てた。
  「戦後しばらくは目の前の仕事に精一杯で、遺族や戦友のことまで頭がまわりませんでした。しかしある時期から、戦死した戦友たちに思いを馳せ、けっして自分一人で戦ってきたわけじゃない、と思えるようになりました。昔のことは忘れたい、という人もいますが、なんで忘れられるんだろう、と腹立たしく感じます。私は死ぬまで、戦争の記憶をひきずっていきますよ」
日系二世の航空戦史研究家が著した日本海軍の戦闘機搭乗員に関する本のなかで、大原のことを、
  「撃墜機数48機、『ラバウルの殺し屋』と呼ばれていた」という趣旨で紹介されたことがある。
大原は自らの撃墜機数を人に吹聴したことはなく、『ラバウルの殺し屋』にいたっては、事実無根の創作である。本を見た大原は、
  「『殺し屋』とはなにごとだ、国と国との戦争だったんだ。好きで人を殺したのでも、商売で敵を倒したのでもない。戦争を軽々しく娯楽の道具にされちゃ困る」と、いたく立腹だった。
その本が日本で出版された直後、招かれた米海軍厚木基地でのパーティーの席上でも、現役の米軍人たちから、このことについての質問が浴びせられた。
大原は、
  「私はあなた方の友人としてここに来てるんだから、あなた方の先輩を何機墜としたとか、どうかそんなことは聞かんでください」 と答えた。
米軍人の間から、大きな拍手が起こった。
大原は、ラバウルでずっと宮野大尉の三番機を務めていたにもかかわらず、
  「ルンガ沖航空戦」のとき、自らの指の負傷のために出撃を止められ、最後の戦いで宮野大尉を護れなかったことを終生悔やんでいた。
平成16(2004)年、筆者は83歳になった大原と一緒に、大阪・八尾市にある宮野大尉の墓に参り、宮野大尉の実姉・宮崎そのを訪ねたことがある。
  「隊長、私もこんなに歳をとりました……」
遺骨なき宮野大尉の墓に、大原はしみじみと語りかけた。
平成30(2018)年歿、享年97。
大原の死で、私が出会った二〇四空の零戦搭乗員は、一人残らずこの世を去った。
不要だった真珠湾攻撃(敗戦革命スタート)!
優秀な帝国陸軍悪者論は戦後の日本政府が捏造した大嘘!
山本五十六と野村吉三郎は共産主義者のスパイ!
2021・4・11 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家) 現代ビジネス 神立 尚紀よ、祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明かし記事を書け! 
【戦争秘話】開戦前、真珠湾を偵察した5人の海軍士官は何を見たのか 
「記事抜粋」
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4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、
  「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで
  「紙の本」として再構成したものである。
そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。
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第3回は、本書第一章
  「真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした『本音』」に関連して、ちょうど80年前の昭和16(1941)年、攻撃に先立って真珠湾を偵察した海軍士官たちの、あまり語られることのなかったエピソードを紹介する。
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  目的は潜行しているスパイとの連絡
日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃(昭和16〈1941〉年12月8日)で太平洋戦争の火ぶたが切られる直前の10月15日、日本郵船の貨客船
  「龍田丸」は、盛大な見送りを受け、舷側に無数の紙テープをなびかせながら、横浜港を出港した。
行き先はハワイ経由、サンフランシスコである。
  「龍田丸」は、総トン数16,955トン、全長178メートル、航海速力19ノット(時速約35キロ)、旅客定員839名(一等239名、二等96名、三等504名)。
昭和5(1930)年、北太平洋航路に就役して以降、姉妹艦
  「浅間丸」
  「秩父丸」(のち「鎌倉丸」と改名)とともに、
  「太平洋の女王」と呼ばれた豪華客船だった。
当時アメリカは、日本の南部仏印(現・ベトナム)進駐を機に、在米日本資産の凍結、対日石油禁輸、通商拒否などの対日強硬策を打ち出した(6月21日)が、日米の協議の結果、人道上の見地から人と郵便物の往来は続けられることになり、その交換船の一隻めとして
  「龍田丸」が選ばれたのだ。
日米関係は緊迫の度を増していたが、ふだんと変わらない出港風景。
ただ、日本郵船所有を示す、黒地に赤線2本の煙突ファンネルマークが黒一色に塗りつぶされているのが異様だった。
これは、万一のアメリカ政府による接収を避けるため、日本郵船の船としてではなく、日本政府が徴用した交換船という名目を立てるための措置である。
この船にはもう一つ、表に出さざる任務があった。
アメリカ太平洋艦隊が本拠を置くハワイ・真珠湾の隠密偵察と、現地諜報員(スパイ)との連絡である。
そのために、3人の海軍士官が、船員に化けてひそかに乗り組んでいたのだ。
すでに、昭和15(1940)年5月、アメリカ太平洋艦隊の主力がアメリカ西海岸・サンディエゴから、より日本に近いハワイに拠点を移したことを脅威ととらえた日本海軍は、さまざまな手段で情報収集にあたっていた。
情報収集(=諜報活動)は極秘裏に行われ、こんにちその全貌を把握することはむずかしい。
だがその一端として、かつて日本海軍に空母の運用を指導、その後三菱に迎えられ、日本のスパイとなって活動していたイギリス空軍元大尉、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドハワイに派遣し、諜報活動をさせていたことが、近年、公開された英機密文書から明らかになっている。
ラトランドは小舟をチャーターし、真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影、情報を日本に送っていた。
FBI(米連邦捜査局)が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測っていたが、そのことはMI6(英秘密情報部)も察知するところとなり、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国したところを
  「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。
また、日本海軍は、健康を害して予備役に編入され、軍令部嘱託として、英国に関する情報収集の仕事をしていた吉川猛夫少尉(海軍兵学校61期出身。
クラスメートはすでに大尉に進級している)を外務省に入省させ、
  「森村正」の偽名でホノルル総領事館の三等書記官として送り込んでいた。
出発に先立ち、情報を担当する軍令部第三部は、彼に当座の活動資金として6万ドル(当時のレートで25万6200円。
少尉の俸給月額の3,660倍)もの機密費を手渡したとされる。
  「森村」こと吉川は、昭和16(1941)年3月27日、
  「新田丸」でホノルルに到着。
以後、さまざまな手段を用いて諜報活動を続けている。
怪しまれないよう、日本料亭の仲居や芸者とドライブを楽しむふりをして港内を観察したり、芸者を連れて遊覧飛行を装い、上空から偵察したりするうち、地元の日系一世、二世の間では
  「かなりの遊び人」と噂がたったりもした。
かと思えば、一晩中、1人で砂糖黍畑に身を潜めて港内を監視したこともあった。
  真珠湾作戦の最後の詰め
  こよりに書き込まれた極秘文書
  一週間後、第二陣の士官を乗せた船も出航
  作戦参加搭乗員たちに直接敵情説明
  5人の偵察士官のその後
前略
真珠湾攻撃のさい、米空母が真珠湾におらず、しかも対空砲火の反撃が予想以上に早かったことから、攻撃に参加した飛行機搭乗員でさえ、  
  「アメリカは知っていて待ち構えていたんじゃないか」と述懐する人は少なくなかった。
日本側が重油タンクや港湾設備を攻撃目標にしなかったことなどもふくめ、いまもなお釈然としない部分は残されているが、それは本稿とは別の主題になろう。
しかし、真珠湾攻撃がこれほどの手間暇をかけて情報を収集し、準備を重ねた末に決行されたにもかかわらず、それでもなお不完全な面が残ったことを顧みれば、その後の、希望的観測をもとにした場当たり的な日本軍の作戦が、ことごとく失敗に終わったのも無理はないと思われる。
大和民族は今、正統性無き戦後の日本政府が捏造した嘘の中に生きていると知れ!
帝国陸軍は正常、多くの美談あり!
帝国海軍の美談は1件!
米国スパイ山本五十六(真珠湾攻撃は敗戦革命作戦)!
202・1・4・6 ChGrandStrategy
無謀な戦争ではなかった? 帝国陸軍の予測!【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第2回】 (2)
2021・3・31 ChGrandStrategy
「大東亜戦争の真実」を語る新番組スタート!【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第1回】 (1)
  (2)
「コメント」
新番組   「大東亜戦争の真実」。 講師は歴史研究家の林千勝さんです! 今回からいよいよ本編へ。 支那事変後、これからの日本の国力予測し対処する3つの組織がありました。 現在の日本に必要な組織の形を考えます。 #CGS#大東亜戦争の真実#帝国陸軍

  (1)
「コメント」

新番組   「大東亜戦争の真実」。 講師は歴史研究家の林千勝さんです! 以前CGSのインタビューに出ていただいた際は熱く歴史の真実について語っていただきました。 初回はこの新シリーズの講義の内容と2つの狙いをお聞きします。
戦後の日本政府は多くの嘘を捏造、政府を信じるな、大和民族の日本人!
大日本帝国と英霊、先人を貶め悪者に仕立て上げた朝鮮人が牛耳る戦後の日本政府!
2021・4・4 社会部・大城志織 沖縄タイムス 大城志織よ、曽祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明かし記事を書け! 
毒薬注射を待つ列に並んだ…85人が亡くなった「集団自決」からの生存者が語る壮絶な記憶 
「記事内容」
読谷】「もうダメだ、自分たちで死ぬほかない」-。
沖縄戦で
  「集団自決(強制集団死)」が起きた村波平のチビチリガマ。本島に上陸した米軍が侵入すると、追い詰められた住民らが肉親を手に掛ける悲劇が起きた。
家族で避難していた上原進助さん(87)=米ハワイ州在住=が国際電話で取材に応じ、チビチリガマで見た光景を語った。 
※これも事実かどうかは分からん!

  【画像】別のガマの中でいまも見つかる遺骨  

1945年4月1日、母や妹ら家族とチビチリガマに避難していた上原さんは、米兵と戦うために竹やりを持って出た住民2人が銃で撃たれる音を聞いた。
ガマは静まり返り、住民らに絶望感が広がった。
翌2日、米兵が
  「出てきなさい」
  「殺しはしない」などと日本語で書かれた紙を持ってガマに入り投降を呼び掛けた。
だが
  「捕まれば残酷な殺され方をする」との教えが徹底されていた住民らは応じなかった。
激しく動揺した住民らの中に、毒薬注射を手にする看護師の女性の姿があった。
肉親らに打つ姿に
  「私も死にたい」と上原さんも注射を待つ列に並んだ。
上原さんの番になったが退けられ、看護師は最後に残った分を自分で打った。
  「アンマー」と泣き叫ぶ声が響き、娘を刃物で切り付ける母親の姿もあった。
住民らが極限状態に追い込まれ、毛布などに火が付けられるとガマに煙が充満した。
息ができず苦しむ中、母親が
  「暗い所で苦しむより明るい所で死のう」と外へ逃げ、上原さんたちは米軍の捕虜になった。
肉親を手に掛けた当時の状況を
  「米軍に捕まったら天皇陛下に恥をかかせることになるから、自分の始末は自分でするべきだと大人から教えられたあの時の教育は本当に愚かだった」と振り返る。 
※沖縄だけ特殊な教育をしたのか?
平和を希求する一人として現在はハワイで牧師として活動する上原さん。
3日は、ハワイからチビチリガマでの犠牲者の御霊の冥福を祈った。
 
和名を名乗る朝鮮人が潜む戦後の日本政府の意向だろうが、沖縄県民は戦後、多くの嘘を捏造した!
嘘とまやかしで成り立つ大日本帝国、騙されるな大和民族の日本人!
2021・4・5 
【海外の反応】約100年前に日本が輸出した高性能潜水艦にタイから驚きと感動の声「もし日本の潜水艦が無かったらヤバかった…」 【世界のJAPAN】 
「コメント」
  
明治、大正、昭和、平成、令和と異質な人種が混在する日本国!
日本国と大和民族は有史以来初の危機、危機を齎しているのが日本政府!
2021・4・4 佐々木洋輔 朝日新聞 佐々木洋輔よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明かし記事を書け!
旧陸軍大将の手紙発見 三重出身、薩長への対抗心克明に 
「記事内容」
旧桑名藩士から維新後、陸軍軍人に転じ、三重県出身で唯一、陸軍大将を務めた立見尚文が実兄に宛てた手紙など、新たに見つかった史料が、三重県桑名市京町の市博物館で展示中だ。
杉本竜館長(46)は
  「立見尚文が心許せる兄に宛てた手紙には、赤裸々な心情が記されている。
貴重な史料だ」と話している。

  【写真】立見尚文の史料について説明する杉本竜館長=2021年3月14日、三重県桑名市京町の市博物館  

博物館によると、立見は桑名藩士の町田静臥の三男として出生。
幼少期に桑名藩の立見家の養子となり、藩主・松平定敬の身辺に仕える小姓を務めた。 
※養子?
従軍した戊辰戦争では、幕府側に立った桑名藩が降伏開城した後も、実兄の町田武須計(ぶすけ)らとともに主戦派の中心として東国に転戦。
幕府軍の土方歳三らと宇都宮城を落城させる活躍を見せた。
その後の東北戦争で最後まで抗戦した庄内藩とともに降伏。
出羽庄内(現在の山形県鶴岡市)で謹慎生活を送った。
戊辰戦争後、新政府軍の敵側だった立見は、陸軍では出世が望めないと考え、いったんは軍人を辞め、裁判官になった。
だが、軍略と統率力を買われて、1877(明治10)年の西南戦争で再び戦場へ。
西郷隆盛を討ち取る部隊を率い、勝利の立役者になったことから、その後の軍歴が開花。
日清、日露両戦争でも指揮官として活躍し、1906(明治39)年、陸軍大将に昇進した。
今回、新たに展示している史料は、立見の実家である桑名市の町田家で見つかった実兄に宛てた手紙など計52点。
晩年までの約28年間にわたり、実兄との交流がわかる史料で、2017年夏ごろから町田家から寄贈されたものを、杉本館長が調査研究してきた。
手紙からは維新後も、故郷の桑名を愛し、薩長への対抗心を持っていたことがうかがえる。
例えば、日清戦争直前の陸軍少将だったときの手紙には、
  「多年養成する桑名魂を天下に表白するも亦此(またこ)時機に在り(原文まま)」と記して、
  「いまこそ桑名魂を見せる」と宣言。
また
  「薩人の参謀長たる者今日此際休められ是れに代るもの者が我々薩長以外の人ならんとは豈大愉快(あにだいゆかい)(原文まま)」と書き、自分のような賊軍出身の人物が参謀長になることを
  「愉快だ」と誇り、薩長への対抗心をあらわにしている。
杉本館長は今回の展示品について、
  「軍人よりも個人としての立見尚文を知ることができる史料。読み解きを進めるにつれ、立見大将のプライベートの様子や赤裸々な心情が見えてきて興味深かった」と話す。
展示は11日まで。
入館料は150円(中学生以下無料)。
月曜休館。問い合わせは桑名市博物館(0594・21・3171)。()
恣意的に大東亜戦争の総括をしない正統性無き戦後の日本政府!
朝鮮族吉田茂が日本国憲法発布拒否で始まった旧皇民(大和民族の日本人と台湾人)の不幸!
2021・4・4 (1/4ページ) 早坂 隆/Webオリジナル(特集班) 文春 早坂 隆よ、曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明かし記事を書け!
「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言 
「記事内容」
  「甲板は一瞬で血の海、泣き叫ぶ声で地獄絵図に」機銃掃射の尖閣沖、生き残った日本人の告白 から続く

  【画像】尖閣諸島・魚釣島に残っている、昭和15年まで住民が活用していた水路  

漂流者たちの身体はみるみる衰弱し、重度の栄養失調に陥る者が続出。
餓死者が相次いだ――。
終戦直前、多くの日本の民間人を乗せた疎開船が遭難し、無人島だった尖閣諸島に流れ着いた。
しかし、そこから120人を超える遭難者集団による、過酷な飢えの日々が始まった。
尖閣諸島で起きた秘史について、昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回め/ #1 を読む)
          ◆◆◆
  いきなり始まった「無人島生活」
尖閣諸島の沖合で米軍機の襲撃に遭った疎開民たちは、傷ついた船で尖閣諸島の魚釣島を目指した。
石垣島の北西約170キロの位置にある尖閣諸島は、魚釣島や北小島、南小島、久場島、大正島などから構成される。
3・8平方キロメートルほどの面積を持つ魚釣島は、その中で最大の島である。
明治時代には筑後国上妻郡(現・福岡県八女市)出身の実業家である古賀辰四郎が、島内に鰹節工場を建設。
船着場も設けられた。
最盛期には250名ほどが暮らしていたとされる。
しかし、昭和15(1940)年に事業は停止。
人々は島を去った。
  島に閉じ込められ、負傷した腕からはウジが…
  次々と人が死んでいく「飢餓地獄」
  毒のある豆を食べて中毒死する人も…
  小さな帆船を製作し、決死の脱出計画
  石垣島に向かう9名の「決死隊」を結成
  魚釣島から見えた「日の丸」
  帰還後にも起きた悲劇
救助船は8月19日に石垣島の港に帰港。
桟橋には出迎えの人たちが多く集まっていた。
台湾に向けて石垣島を出発した日から、すでに約50日が過ぎていた。
そしてこの時、彼らはようやく日本の敗戦について知ったのである。
魚釣島から生還することができたにもかかわらず、その後に栄養失調などの影響で命を落とした子どもたちもいた。
宮良廉良とその妻である幸子の間には二男五女があったが、魚釣島から石垣島に戻って1週間後、五女で3歳の洋子が絶命した。
洋子は床に就いてはいたが、前日まで時おり笑顔さえ浮かべていた。
父はそんな洋子を見て、
  「子どもたちが元気になった」 とおどけて踊ってみせていたという。
さらに翌月には、次男で1歳の邦雄も旅立った。
束の間の幸福な時間は、脆くも瓦解した。
この一連の遭難事件の犠牲者数には諸説ある。
米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかとされている。 終戦翌年の昭和21(1946)年、遺族らによる魚釣島への遺骨収集が行われた。
昭和44(1969)年には、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。
  「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。
しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。
遺骨収集も進む気配がない。
多くの遺骨はいまだ島内に取り残されたままである。(文中敬称略)

(日本人と台湾人)が大東亜戦争を戦った理由は人種差別撤廃!
2021・4・2 朝鮮日報日本語版
「アジア人として生まれないことを」 米ハーバード大学が人種差別 
「記事内容」
米国のハーバード大学が
  「アジア人を狙った人種差別に反対する」としながらも、大学のウェブサイトには不適切な文言を使用していたことが分かった。
ハーバード大学はある在学生の指摘を受けてその内容を修正し、謝罪した。

  ■「世界で最も住みやすい国」2020年版発表、韓国17位、米国28位、日本は?

ハーバード大学の校内新聞
  「ハーバード・クリムゾン」の学生記者マテオ・ウォン氏が31日、ツイッターで同大学のカウンセリングとメンタルヘルス・サービス・サイトにある
  「反アジア人種差別」のページに
  「あなたはアジア人として生まれないことを願ったでしょうが、あなたの祖先たちははるかに悪い事件を経験してきたことを記憶しなさい」と記載されていることを問題視した。
このツイートには
  「いいね」が4万7000件以上あり、8200回以上リツイートされていた。
ウォン氏は
  「メンタルヘルスのサイトに誰がこのような書き込みを行ったのか教えてほしい」
  「この書き込みが人種差別を追い払うのにプラスになる理由は何か」と指摘した。
ウォン氏はさらに
  「(私の祖先たちが私よりも悪質な人種差別を受けたという事実が)私の人種について何かの誇りを持たせるのか、いや一体どのような誇りを持てということか」と批判した。
ウォン氏がツイッターにこの批判を掲載してからおよそ5時間後、大学側は指摘を受けた文言を削除し謝罪文を掲載した。  ハーバード大学健康サービス(HUHS)理事を務めるNguyen Van GIang教授は謝罪文で
  「最近ウェブサイトに掲示された一部の内容がわれわれの使命にそぐわず苦痛を与えたことを深く謝罪する」
  「これらの文言は無感覚で不適切な内容だった」との考えを示した。
さらに
  「このようなことが再発しないよう努力し、包容的で偏見がないよう最善を尽くしたい」ともコメントした。
 
※アジアに大嘘吐きのシナ人と朝鮮人がいる限りアジアは一つに纏まれない!
令和と大東亜戦争前の日本の共通点!
林千勝よ、
曾祖父母と祖父母、両親の人種or出自を明し活動しろ!
2021・3・30
「大東亜戦争の真実」を語る新番組スタート!【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第1回】 
「コメント」

 
※帝国陸軍と帝国海軍の大きな違い、美談の数の違いを認識しろ、大和民族の日本人は知るべき!
満州国、モンゴル
2021・3・27 チャンネル桜
【南モンゴル問題を考える勉強会】楊海英 静岡大学教授講演(ノーカット)[R3/3/27] 
「放送内容」
南モンゴル問題を考える勉強会 令和3年3月16日 衆議院第1議員会館国際会議室 呼びかけ人:山田宏(参議院議員) 上野宏史(衆議院議員) 講演:楊 海英(静岡大学教授) 演題:「南モンゴルの近現代史と日本、そして現在」
当時は極少数の和名を名乗る朝鮮人と多くの共産主義者が潜む政府!
現在は多くの和名を名乗る朝鮮人と多くの共産主義者が潜む政府!
日本国と大和民族
に有史以来初の危機を齎している嘘多き政府!
2021・3・25 (1/3ページ) 岩井秀一郎(歴史研究家) 岩井秀一郎よ、祖父母と両親の人種or出自を明かし記事を書け!
二・二六事件で失われた、ある陸軍軍人の命と「もう一つの日本の未来」
「記事内容」
  「生きていれば戦争は避けられたのではないか……」。
そう惜しまれている陸軍の軍人がいる。
二・二六事件で殺害された、渡辺錠太郎である。
その死の背景に迫ると、あり得たかもしれない
  「もう一つの未来」が浮かび上がってくる。
※本稿は、『歴史街道』2021年4月号の特集「『昭和の陸軍』光と影」から一部抜粋・編集したものです。
  永田鉄山が評価した軍人
昭和11年(1936)2月26日
  「昭和維新」を目指す青年将校らは、麾下の部隊を率いて政府や軍の要人を襲撃する事件を起こした。
この時、襲撃を受けて殺害された軍・政府の要人内大臣の斎藤実(海軍大将)大蔵大臣の高橋是清陸軍教育総監の渡辺錠太郎(陸軍大将)である。
総理大臣の岡田啓介(海軍大将)も襲撃を受けたが難を逃れ侍従長の鈴木貫太郎(海軍大将)は重傷を負うも一命をとりとめる。
二・二六事件である。
この事件は、陸軍内部の派閥抗争に、社会情勢を憂う青年将校の過激な正義感が絡み合って引き起こされ、日本の行く末に大きな影響を与えた。
渡辺は、その派閥抗争の一方の当事者だったのである。
渡辺のことを
  「参謀総長要員だよ」と高く評価したのは、陸軍の逸材として期待された永田鉄山である(高宮太平『軍国太平記』)。
参謀総長は教育総監と並ぶ陸軍三長官の中でも軍の
  「統帥」を担っている。
閣僚ではないが、政治にも大きな発言力を持つ。
仮に渡辺が生き残っていたとして、本当に参謀総長になっていたかはわからない。
しかし、彼の盟友であり、士官学校同期でもあった林銑十郎が教育総監から陸相、後には総理大臣にまでなったことを考えると、渡辺の参謀総長や陸相の可能性は決して低くない。
そして、
  「渡辺が生きていれば戦争は避けられたのではないか」と悔やむ人もいる。
彼らはなぜ、そう思ったのか。
渡辺の何が、そのような
  「歴史のif」を想起させるのだろうか。
  「非戦」の信念を培った歩み
  なぜ青年将校に狙われたか
  「下剋上」を拒絶する強さと知性
前略
鈴木は、士官学校24期で、陸大は渡辺と同じく首席で卒業するという知性派であった。
のちにフィリピンで戦死し、死後大将に進級する。
堀江によれば、鈴木は軍人の政治関与を批判し、陸軍は滅亡するだろう、と悲観していた(同書)。
戦争が不利になった時、現役の将軍が思い出す人物が渡辺だったというのは、注目に値する。
現役、予備役含めて数多くの人材がいる中で、開戦前に死んだ渡辺錠太郎という人物は、
  「もし生きていれば」と痛感させるだけの軍人だったということだろう。
渡辺は、派閥を作らず、下(部下)を甘やかすこともなかった。
それゆえ、高宮が言うように、陸軍を統制する際は、真正面からの
  「正攻法」が考えられる。
  「開戦か否か」という時に参謀総長であれば、当然ながら
  「戦争を避ける」方を選び、突き上げてくる部下にも妥協しなかったと思われる。
そうして陸軍の主戦派である参謀本部の第一部(作戦)を抑えられれば、あるいは戦争回避に一筋の光明が見えたかもしれない。
そこまですれば、渡辺はやはり命を失い、また軍内部で多少の騒動もあり得たが、戦争で数百万の人命が失われることは避けられただろう。
  「下剋上」と言われる昭和陸軍で、渡辺はその
  「下剋上」を拒絶するだけの強さと知性を兼ね備えていた。
この資質と強情にも見える人格は、戦争を防ぎ得た数少ない可能性だった。
しかし渡辺は、その強さと知性故に憎悪され、非業に斃れた。
歴史の皮肉という他はない。
 
※歴史を考えると朝鮮は自立出来ず、ロシアの脅威を排除する為に、朝鮮半島と満州が必要だった大日本帝国!
他には道はあるまい、大東亜戦争の日米戦は内に存在したスパイに負けた、胆の銘じろ大和民族の日本人!
山本五十六と野村吉三郎は米国のスパイである。
国と家族、大和民族の為に死んだ兵隊は多いぞ!
2021・3・17 南日本新聞
亡父の中国従軍ノート発見 19ページ、過酷な軍内暴力詳述 
「記事内容」
南九州市頴娃町御領の福留光子さん(65)宅で、父利光さん(1997年に74歳で死去)太平洋戦争の従軍体験を記したノートが見つかった。 
※1927年生まれだが、何歳で招集令状を受けとったのか?
戦闘場面はほとんどない代わりに、自殺者を出すほどの上官による日常的な暴力があり、軍の体質そのものが命の脅威だった様子を伝える。
戦後生まれの光子さんは
  「私がいるのは、父が生き抜いたおかげと改めて感じた」と話す。

  【写真】故・福留利光さんが戦後に記したノート(一部)

ノートはB5判で、昨年末に古い机の引き出しから見つかった。
利光さんが戦後に書いたとみられる。
破れたものを入れて19ページ分あった。
記述によると、利光さんは44年に頴娃から召集され、熊本の陸軍第六師団で訓練を受けた。
翌年21歳で再度召集があり、満洲から中国南部の汕頭(すわとう)まで列車や船で移動を繰り返した。
途中で海戦や海戦による死者を目撃したが、所属する陸軍の山砲隊が戦闘することはなかった。
一方で、上官による暴力の記述が目立つ。
利光さんも歩哨の仕方を批判され
  「大分なぐられた(原文のまま)」とある。
後でほかの兵も同様の仕打ちを受けたと知り、嫌がらせだと気付いた。
暴力を苦にした自殺者の記述も複数ある。
光子さんは利光さんから
  「生きていても殴られるし、いつ死んでもいいという気持ちになった」と聞いたという。
現地では誰しも
  「腹がへって食う事だけしか考へない」状況で、食糧の見張りの際、帯剣で箱を開け缶詰を盗む方法を兵長に教わったことも率直に記している。
仲間と軍馬用のトウモロコシを盗もうとして見張りに見つかった時は 
※兵隊にあるまじき泥棒行為!
  「どんなひどい目にあうか」とおびえていたが、見張りは優しい人で、本土のことをしきりに聞く代わりにトウモロコシを食べるのを許し、たばこも吸わせてくれたと記す。
光子さんは
  「現地ではしたたかさも必要だったのだろう」と推し量り、
  「つらい中でも優しい人に助けられ、生き残れた父は幸運だった」。
文章を活字化して残すことも考えている。
怪しい日本国史学会!
2021・3・4  Hidemichi Tanaka
田中英道「大東亜戦争の偉大な恩人」日本国史学会(代講)(2021/03/02) 
「コメント」
田中英道「大東亜戦争の偉大な恩人」 日本国史学会(代講) 令和3年3月2日自宅にて(2021/03/02)     ◇主催:日本国史学会 http://kokushigaku.com​ 田中英道ホームページ |   「美の探究者、歴史と思想を語る」 http://hidemichitanaka.net/
戦後の日本政府にとって都合の悪い情報!
満州国・大日本帝国全盛期!
2021・1・2
アメリカが撮影した1938年の満洲国の様子 -Manchuria under Japanese rule photographed by the United States in 1938-
「コメント」

 
※大日本帝国はアメリカ(共産主義者)の罠に嵌らず、裏切者(共産主義者)もおらず、大東亜戦争日米戦が起きていなければ、中華人民共和国も存在せず、世界は発展し平和を享受していただろう。
読売新聞はいい加減、工作を止めろ!
大東亜戦争アメリカ戦、「紫電改」パイロット笠井智一氏
大和民族は必ず、英霊と先人の方々の名誉を回復させます!
2021・1・11 読売新聞
戦闘機「紫電改」パイロット、笠井智一さん死去…94歳 
「記事内容」
太平洋戦争で戦闘機
  「零戦」や「紫電改」に搭乗したパイロット、兵庫県伊丹市の笠井智一(かさい・ともかず)さんが9日、心不全で亡くなった。94歳だった。
告別式は13日に近親者で営む。
  【写真特集】戦後75年 小笠原に沈んだ戦禍  

兵庫県丹波篠山市生まれ。
16歳で旧海軍に入隊し、サイパン、ヤップ島などの南方戦線を転戦し、フィリピンでは特攻機援護の任務に就いた。
戦争末期は愛媛県・松山基地の航空部隊で紫電改に搭乗。
戦後、予科練習生同期の7割が戦死した激しい戦闘の様子を、著書や各地の講演会で伝えていた。
 
※大日本帝国と英霊、先人、戦後を生きた大和民族と台湾人を大嘘をもって裏切ったのが、正統性無き戦後の真っ赤な日本政府である! 早く気付けよ、馬鹿ではあるまい、大和民族!